表紙



真夜中のものがたり





 それは美しい城だった。小高い丘の上から、数百年もの長い時間、いっときも絶えることなく、厳かに領地を見下ろしつづけていた。
 夜の帳が落ちる時分になると、人形のように沈黙した、青白い顔の召使いたちが、かすかな衣擦れの音とともに、冷たい石畳の上を、ひとつ、またひとつと、燭台に火を灯して回る。すると、召使いの頬にあざやかな肉の色が戻ると同時に、回廊を指でなぞるようにして、滲んだな光の道が、するすると静かにのびてゆくのだった。遠くから眺めるその様子は、月のない夜にはとくに、空にかがやく星ぼしを、手のひらで握りしめたように浮かび上がった。
 しかし、城に住まう者たちはそれを知らなかった。知るのは城下から仰ぎ見る人々ばかりであった。
 闇に燃える灯の揺らめきは、力の象徴であった。戦のはじまりをつげる狼煙であり、また、声なき葬列の嘆きに似ていた。

 レンスター城の回廊を、規則正しい歩調で歩む人物があった。手にした盆の上にのせられた玻璃の杯には、井戸から汲んできたばかりの済んだ水が、わずかに波打ってゆれている。
 回廊は真昼のように明るかった。しかし、それは、灯火の見せる幻影であって、現実にはあまねくすべてが物言わぬ闇に包まれていることを、彼は知っていた。
 しばらく行くと、彼は、だしぬけに歩みを止めた。そうして、窓から天を仰いだ。しかし、空に月の姿はなく、星のまたたたきひとつなかった。つぎに視線は、空から降りて大地に向けられた。その先には、隣国との国境があるはずだったが、今は目を凝らしても見えるのは、生き物の息遣いすら飲みこんでしまいそうな、濃い闇ばかりだった。
「フィン」
 名を呼ばれ、フィンは振り向いた。
「アルテナ様」
 フィンはぎょっとして、声を上げた。足元でそっと外套をつかんでいるのは、幼いレンスターの一の姫であったから。
「このような夜更けにおひとりでいらっしゃるとは、一体、どうなさいましたか。侍女たちは」
「おかあさまをさがしているの」
 まばたきもぜず、穴があくほど強く、大きな瞳で見上げている。
「どこにも、いらっしゃらないの。フィンは、しっている?」
 フィンは、杯の水がこぼれないように注意しながら、膝を折り曲げた。
「申し訳ございません。私も存じません」
「そう」
 アルテナは悲しげにつぶやいたが、フィンの手にしたものに気がつくと、
「ねえねえ、フィン、それはなに?」
「水でございます」
「だれにもっていくの?」
「キュアンさまに」
「すこし、のんでもいい? ほんのすこしでいいの」
 フィンはためらった。その一瞬を敏感に感じ取ったのか、アルテナが鋭く言った。
「これは命令です」
 アルテナの言葉が、心から出たものではないことを、フィンは理解していた。幼い姫は、ただ無邪気に周囲の大人たちの真似をしているのだ。しかし、フィンは抗えなかった。アルテナにそっと杯を差し出す。
「ありがとう。のどがかわいていたの、とても」
 アルテナは、顔をほころばせた。それから、ふっくらとふくらんだ、淡い紅色のくちびるをぬらす程度の水を、ゆっくりと口に含んだ。
 すぐに杯を盆の上にもどすと、気だるそうに両の手で目をこすった。
「もう、おへやにもどるわね。なんだか、ねむくなってきちゃった。おかあさまには、またあしたあえるわよね」
 アルテナの何気ない言葉に、どうしてか、胸を焼かれるような違和感を覚えたが、それは口に出さず、フィンは深ぶかと頭をたれてこたえた。
「おやすみなさいませ、アルテナさま」
「そうだ、お水のおれいに、これをあげる」
 言いながら、アルテナは夜着の隠しをさぐった。やがて、小さな箱をとりだし、そっとふたを開けた。フィンが不思議に眺めていると、それはレンスター城の優雅な庭を摸した、細かな細工の箱庭だった。
 フィンの表情が曇った。
「このような高価な品物を、いただくわけにはまいりません」
「もらって」
「いいえ」
「命令です」
 しぶしぶながら、フィンはそれを受け取った。しばらく預かっておいて、のちのちエスリンを通して返すつもりだった。
「では、お部屋までお送りいたします」
「どうして? 変なフィンね、わたしのへやはすぐそこよ。ひとりでかえれるわ、だって、もう、こどもじゃないんですもの。ついてきちゃだめよ」
 そう言って、勝ち誇ったように笑うアルテナの指の示す先に、たしかに扉があったので、フィンは困ったふうに、
「せめて、ここでお見送りさせていただくことを、お許しくださいませ」
 アルテナは、こくりとうなずいた。
「あのはこ、すてきでしょう。ゆめみたいに、とってもきれい」
 部屋に戻る道すがら、アルテナが振り向いて言った。
「でもね、わたし、やりのほうがすきなの。おかあさまには、ないしょよ」
 石床の上を軽やかに走り去るアルテナの夜着のすそが広がって、闇夜に小さな白い花が咲いたようになった。

 アルテナの姿が扉の向こうに消えるのを確認すると、フィンは、ふたたび、回廊を歩きはじめた。この長い回廊の一番奥に、キュアンの私室がある。そこまで、早く水を運ばなければならなかった。
 今は一体どれほどの時刻なのだろうかと、フィンは考えた。外に広がる闇はなお深く、夜明けは遠く思えたが、しかし、ずいぶんと長い時間、夜の城ををさまよっているようにも思える。
 そんなことを思い巡らしていると、にわかに、闇を伝うようにして、歌声が聞こえてきた。しかし、よく耳をすますと、それは歌声ではなく、母が子を呼ぶ叫びだった。
「アルテナ」
 くりかえされる声は、けれど、谷間のやまびこがそうであるように、応えるものもなく、暗がりにうつろに響くだけであった。ただ、燭台の淡い光だけが、震える空気におびえるように、わずかにゆらいでいた。
「アルテナ、どこにいるの」
 フィンは目を凝らしてエスリンの姿を探したが、見つからない。
「エスリン様?」
「アルテナ、アルテナ」
 わびしく流れる弱い夜風と、沈黙する闇のほかにはふたりを隔てるものはないはずであったが、フィンの声はエスリンに届いてはいないようだった。
 フィンは、はるかあなたに呼びかけるように、腹から声を出した。
「エスリン様、どこにいらっしゃるのですか」
 ここでやっと気付いたのか、エスリンの声音が変わった。
「……フィンなの」
「はい」
 春の陽光のように明るく、よくとおる声ははっきりと聞き取れるものの、姿は変わらず闇に紛れている。
「アルテナを見なかった? 部屋からいなくなってしまったの。どこにも姿が見えないのよ。さっきまで、すぐ近くにいたはずなのに」
「アルテナ様は、先ほどお部屋にお戻りに」
「そう……」
 しばらくして、エスリンがたずねた。
「あなた、何か飲むものを持っていない?」
 フィンはうなずいた。
「はい、水を」
「悪いけれど、少し、わけてもらえないかしら。ひどく喉が乾いてしまって」
「……はい」
 すると、闇から白い手が伸びてきて、優雅な仕草で杯を取った。
「ありがとう」
 ふいに、頭によぎった疑問が、フィンの口から我知らずこぼれでた。
「エスリン様、侍女をお連れではないのですか」
「あら、どうしてそんなことを聞くの」
「この時分におひとりで出歩かれるのは、危のうございます」
 エスリンは柔らかな口調で、半ば独り言のようにつぶやいた。
「でも、わたしは、自分の足で探したいの。自分の手で抱きしめたいの。すぐ側にいるのに、母親が子どものぬくもりがどんなものかを知らないのは、悲しいことだわ……」
 フィンはそれに応える言葉を持っていなかったから、沈黙した。
「フィン、お水、ありがとう。甘くておいしかったわ。よい夢を」
 エスリンはそう言うと、影ひとつ残さず、暗がりにふたたび消えていった。

 フィンは早足で回廊を歩んでいた。早く盆の上の水を主の元に運ばなければならないのだ。だのに、歩けども歩けども、景色は変わらず、一向に回廊の終わる気配がない。髪は乱れ、額にじっとりと汗をかく。流れでた汗が目に入りこむ。フィンは盆を持たぬ方の手で、それをぬぐった。
 回廊はどこまでつづくのか。今は、何刻なのか。
 燭台の炎はせんと少しも変わらなく赤々と燃えているのに、どうしてか、あたりの景色がぼんやりと霧のかかったようにおぼろげに映る。その灯りをたどって、何とか回廊がつづくのを認識している有様だった。
 フィンは、さらに歩調を早めた。あたりは昼のように明るいはずで、こんなにも激しく炎がゆらめいているというのに。
 これとよく似た情景を、フィンは知っていた。初陣で過ごした、はじめての夜だ。陣営には見張りの兵も多く、絶えずこうこうと火が燃えたってはいたが、ひとたび目を逸らすと、周囲を深い闇に囲まれているのに気付く。背筋が凍った。闇に紛れた何千何万の研ぎ澄まされた刃が、さらに多くの憎しみと、絶望と、怒りと、狂気の入り混じった視線が、沈黙して、こちらを射すように向けられている。
 しかし、と、考える。闇に潜むのが敵であれば、まだいいのかもしれない。ここで、不意を付かれて襲われたとしても、フィンとてもはや新兵ではなく、幾多の戦いを乗り切った歴戦の戦士であって、武器を手にとり、応戦することも可能だろう。だが、今、闇に響くのは自分の足音だけなのだ。鏡にそうするように、自分の喉もとに槍の穂を付きつけるというのか。
「ねえ」
 背後から呼びとめられ、フィンは緊張して立ち止まった。若い女の声だった。
「何をしているの、こんな時間に」
 間をおかず鋭い視線で振り向くも、それはすぐに柔和なまなざしに変わった。
「キュアン様に、水を運ばなければならないのです、ラケシス様」
 美しい食客は、そう、と応えた。
「どうか、お部屋にお戻りください。夜風はお体にさわります」
 ラケシスの大きく膨れた腹を、知らぬふりはできなかった。
「お願い、もう少しだけ」
 ラケシスは言いながら、緩慢な動作で窓際に寄った。
「ねえ、フィン。この国の夜はいつ明けるのかしら」
 深い息をついて、ラケシスは言った。
「私は行かなければならないの」
「そのお体では」
「今ではないわ、夜が明けたらよ」
「あと数刻待つだけで、いずれ、夜は明けます」
 諦観と憂いとを浮かべた瞳が、フィンを見つめた。
「そうかしら」
 そのとき、フィンの軍服の隠しから、何かが軽い音をたてて、床の上に滑り落ちた。それは、せんにアルテナから受け取った、小さな箱庭だった。ラケシスの長い指がそれを拾い上げた。ふたを開けて、まじまじと眺める。
「箱庭ね、レンスターの庭園。とてもよくできている。これはフィンが?」
「いいえ、先ほどアルテナ様からお預かりしたものです」
 エスリンに渡そうと思ってすっかり失念していたのを、フィンは思い出した。
「ラケシス様も、こういった細工がお好きなのですか」
 率直で素朴な質問に、ラケシスはなおも手の上の箱庭を注視しながら答えた。
「そうね、夢を見ることの許された、あの頃だったら」
「今は?」
「この美しい情景が、作り物だと知ってしまったから」
 ラケシスは箱庭のふたを閉め、フィンに向き直った。
「お願いよ、フィン。夜を終わらせて。私は砂漠を越えて行かなければならないの」
「私には無理です。神々ではないのですから」
「あなたになら、できるわ」
「どうやって」
「棺を開ける勇気さえあれば。そこに通じる扉はいつだってあなたの傍にあったのよ。本当は、ずっとすぐ近くにあった。あなたが見ようとしなかっただけで」
「あなたの仰ることが、理解できません」
「たとえば、人が息をするのに、理解は必要なの、生きるためは」
「できません」
「できるわ」
「できません!」
 長い沈黙が、ふたりの間に横たわった。ふいに、沈黙を破って、ラケシスが口を開いた。
「水を、いただけるかしら」
「これは、キュアン様の……」
「お願い、ほんの少しでいいの。喉が焼けそう」
 ラケシスの体をおもんみて、フィンは杯を差し出した。ラケシスはうまそうにそれを口にした。しかし、せんのふたりとおなじく、くちびるを濡らす程度に止めた。
 杯を返すと、ラケシスは窓の外に視線を移した。そのはるか先には、彼女の祖国がある。
「どれほどの月日を過ごそうと、私はこの国では異邦人です」
 フィンは黙ってそれを聞いていた。そんなことはない、と、軽々しく言葉にできるものではないことを知っていたから。
 ラケシスは目を細め、慈しむようにせり出た腹をなでた。
「けれど、この子なら、あるいは」
 言いながら、ふたたび杯を手に取る。
「フィン、水を飲んで」
「先ほどの申し上げたように、これは」
「あなたのための水です、それから、子どもたちのための」
 背筋をすっと伸ばして杯を差し出すラケシスの姿は、かつてノディオンの森で見た、常緑の針葉樹に似ていた。

 ひと筋の光もささない城内の一室で、フィンはひとり床に膝を付き、頭をたれていた。四方を石の壁に囲まれた部屋には、フィンのほかには、ふたつの大きな箱が置かれているだけだった。空気は冷たく、深閑としていて、時おり、フィンの口からもれる白い息を除けば、生の気配は、ねずみの駆けまわる音ひとつ、羽虫のはばたきひとつなかった。
 やがて、鈍い音を立てて背後の扉が開き、そこから射すような光とともに、ひとりの男が入ってきた。
「フィン、遅かったな。何をやっているんだ、こんなところで」
 それはまさしく、フィンの主たるレンスター王子の声だった。決して、聞きまごうはずがない。
「水は?」
 しかし、フィンは立ちあがることも、振り向くこともしなかった。
「なぜそこで膝を折る? お前がそうするのは、私の前でだけだろうに」
「私が膝を折るべきはこの場所にございますので」
 そのままの姿勢で微動だにもせずに、フィンが口を開いた。
「水は、持ってまいりました。しかし、すでに杯は空です」
「何だって?」
「この棺が空であるのと、同じように」
 フィンの眼前に横たわる大きなふたつの箱には、レンスター王家の紋章が彫りこんである。
「馬鹿なことを」
「棺にはおふたりのお体のかさと同じぶんの、イードの砂をつめました」
「やめろ」
「騎士たちが持ちかえった砂は、涙にすっかり濡れて、重くなっていました」
「やめろ!」
「月のない夜には、失われた人々が墓の中から這い出てきます」
 闇に溶けるような、静かな声音だった。
「この真夜中の物語は、美しい物語であったかも知れない。けれど、すべては夢に過ぎません。私は己をだまし、記憶を忘却し、開け放された扉から目を逸らした。けれど」
 ひとつひとつの言葉を自分の心に深く刻み込むように、フィンはゆっくりと言った。口を動かすたびに、胸に熱く煮えたぎらせた湯を傷口にたらすような痛みを感じたが、構わずつづける。その痛みが生の証であることを知っていたから。
 床に置かれた、玻璃の杯がこなごなに砕け散った。
「もう、行かなければ」
 次の瞬間、高い音を立てて、ふたつの棺のふたが開いた。棺の中から、黄砂がとめどなくあふれ出てくる。
 すると、にわかに強風が吹き荒れて、砂が雪のように舞い上がった。
 黄色の風は、棺を、死者の影を、そして、フィンの姿を、あますところなくひと息に飲みこんだ。フィンは抗うことなくこれを受け入れた。全身の力が抜けていくのを感じた。
 やがて、母が子をその腕に抱くように、砂がすべてを覆い尽くしていった。

「お父様!」
 自分を呼ぶ声の力強さに引き寄せられるように、フィンは重いまぶたを上げた。まず、目に飛び込んできたのは、久方ぶりの陽光だった。そのまぶしさ、鮮烈さに、思わず目を細める。
 やがて、次第に鮮明になっていく視界の中央に、目に涙をいっぱいにためた娘の顔がうつった。
「ナンナ」
 それから横を向くと、血の止まりそうなほどフィンの手をきつく握り締めている少年に視線をうつした。
「リーフ様」
 ふたりを安心させようと、フィンは精一杯の笑顔を送ろうとした。
 ナンナはそれを見ると、フィンの体に突っ伏して、声を上げて泣きじゃくった。
 リーフは涙がこぼれ落ちないように、歯を食いしばって、くちびるを強く噛み締めた。
 フィンは無言であたりの様子を伺った。そこはどうやら天幕のなかで、大勢の人の影がこちらの様子を伺っているようだった。
 これまでに起こったことを整理しようと務めたが、醒めたばかりの頭は思うように機能しなかった。
 戦場で流れ矢を胸に受け、意識を失った。それは覚えている。しかし、それ以後の記憶がない。
 あたりをただよう薬草の臭い、周囲に満ちる死の気配。
 足元に目を向けると、人のよさそうな顔立ちの少年僧が、力の抜けたように座りこんでいた。
 彼の握り締める壊れた杖を見て、フィンは己の身に起こったすべてを理解した。
「バルキリー……」

 のちに、傷のすっかり癒えたフィンが、オイフェと酒を酌み交わしたことがあった。生と死との空白の時間についてたずねるオイフェに、フィンは応えて言った。
「リーフ様や、セリス様……新しい世代を生きる若者たちの胸にかがやく希望の灯というのは、生者の強い力によって、ともされるものなのかも知れません。けれど」
 杯を傾けながら、フィンはつづけた。
「古い時代を知る者にとって、それはときに、死者がもたらすものなのです」

 その夜、フィンは夢を見た。久しく見ない、初陣の夢だった。
 主のための槍を何本も鞍に下げて、周りに響く数千の蹄の音に置いて行かれまいと、汗に濡れた手で、必死に馬の手綱を引いている。
 顔を上げると、目の前には、同じように馬を駆る、ひとりの男の背があった。しかし、その背は、フィンのそれより、ずっと大きく感じた。
 フィンはこれが夢だと知っていた。
 だから、張り裂けんばかりの大きな声で、男に尋ねた。
「キュアン様、僕は、あなたのように強くなれますか、強く」
 その姿を焼き付けようと、目を大きく見開く。
「優しく」
 男は振りかえって、穏やかに微笑んだ。そうして、何かを口にした。
 しかし、その声と姿は、砂を含んだ風の音にかき消されてしまった。




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