表紙



花と嵐





 イリアの冬は長く、その厳しさは内陸の者たちの想像を絶する。大地はあますところなく雪に覆われ、空には重く雲がたれこめる。森に鳥の声はなく、生きるものの気配は雪原に残された足跡のみ。天馬が空を駆ける羽音も、冷気をまとった烈風にかき消される。
 ソフィーヤは、軍の伝令であろう天馬の影が頭上を横切るのを見上げた。白い翼が伸びやかに羽ばたくさまに、一瞬息がとまる。風に解かれた長髪をそっと押さえながら、少女は微笑んだ。
「ファ、見て……ペガサスよ……」
 夢中で雪遊びにいそしんでいたファが、目を輝かせて顔を上げた。
「どこ? どこにペガサスがいるの?」
「ほら……空に……」
 細い指が天馬の白い姿を示す。
「うわあ!」
 ファは雪におぼつかない足取りで天馬を追った。しかし、しなやかで優雅な体躯からは想像もできぬ疾風の如き速度をもって、天馬の姿は次第に灰の空へと溶けていった。
「……いっちゃった」
 なおも名残惜しげに空を見つめるファの髪を、ソフィーヤは優しくなでた。
「でも……素敵な贈り物を…残してくれたみたい……」
「おくりもの?」
 怪訝そうに覗き込んだ顔に、ソフィーヤは穏やかなほほえみをかえした。
「ええ……ペガサスの通ったあとに……」
 ファは目線を天へとむけた。
「……ゆき?」
 空から舞い落ちる白い雪を、小さな手のひらで受けた。
「あれ、つめたくない」
 それは雪ではなく、天馬の羽であった。
 わずかに雲切れ間からもれる光が散る羽をやわらかに照らし、空に一筋の道をつくりだした。ファの表情にもふたたび光があふれた。溜まりかねたように、天の道にそって勢いよく駆けだす。
 ソフィーヤはその光景を、半ば幸福をもって、半ば悲しみをもって眺めていた。
 この雪原も数日後には戦場となり、冬の沈黙は生と死の叫びによって破られ、雪の白は赤黒くその色を変えることだろう。
「お姉ちゃん!」
 ぼんやりと宙を泳いでいた意識に、明るい声が飛び込んできた。ファは勢いよくソフィーヤの腰にしがみついた。
「ファもいいものみつけたんだよ」
 息を弾ませ、ソフィーヤの瞳を仰いだ。
「こっちきて!」
 ふっくらと短い指が、ソフィーヤの細い手首をつかむ。
「どうしたの……?」
 笑みに戸惑いが混じった。
「いいからきて」
 強引に腕をひかれたが、つかまれた腕のぬくもりから伝わるのは無邪気な好奇心のみだったので、ソフィーヤは苦笑しながら、前を行くファに黙って従った。
「ほら、おはなだよ」
 ファの指した先には、雪景色にひっそりと隠れるようにして、白い花のつぼみが首をたれていた。硬く閉じられた花弁が、ゆるやかに花ひらこうとしている。
「きれいね……」
 ふたりはしばし、無言でその花に見入っていた。
「ねえ、これなんていうおはななの?」
 ふいにファがソフィーヤにたずねた。
「さあ……ごめんなさい……わたしもはじめてみる花だから……」
 ソフィーヤは小さく首をかしげた。
「雪の下に咲くもの」
 突然、頭の上から不機嫌そうな声がふってきた。
「イリアの言葉では、そう呼ばれてる」
 ファとソフィーヤは、驚いて顔を上げた。
「レイ……」
「別にお前たちの話を聞きたかったわけじゃない。たまたま通りがかったら、そのちっこいのの馬鹿でかい声が耳に勝手に入ってきただけだ」
 レイはふいと顔をそむけた。
「ゆきのしたにさくもの……いいなまえだね。おにいちゃん、おしえてくれてありがとう!」
 満面の笑みとともにむけられた感謝の言葉に、小さく鼻をふんと鳴らして応えた。
「わたしからも……ありがとう……」
 ソフィーヤは恥らうようにほおを染めた。
「本当に……知らないことばかりで……恥ずかしいわ……」
「知らないのは悪くない」
 鋭い視線だけがソフィーヤにむけられる。
「知ろうとしないのは悪いけどな」
 ぶっきらぼうな態度に隠された気遣いを感じて、ソフィーヤの唇に知らず笑みがこぼれた。
「な、なに笑ってんだよ!」
「いいえ……」
「このおはな、イグレーヌにもみせてあげようよ!」
 それまで一心に花を見つめていたファが急に声を上げた。子供らしい、肉づきのよい手が瑞々しい茎にのびる。
 しかし、厳しい言葉がそれを制した。
「やめろ」
 屈んだ、まるい背がびくっとこわばった。
「……なんで?」
 おびえた瞳が恐る恐るレイをみやる。
「摘んだ花は長くは持たないだろ。それに、今摘んだら来年ここに花は咲かない。…イリアの民はこの花の開花を心待ちにしている。春の訪れの象徴だからな。ひとときの楽しみにために、それを全部ふいにするっていうのか?」
「う……むつかしいはなしよくわかんないよ……」
「わかれよ」
 レイの瞳に強い光が浮かぶ。それは直にファへ向けられているというよりも、ファを通して見える別の何かに対する、秘められた深く暗い憤りを感じさせた。
「なんでわかんないで済まそうとするんだよ。理解しようとしろよ。子供だからって許されないこともあるんだよ」
「……レイ……」
 苛立つ空気にソフィーヤの柔らかな声が響いた。
「ファ……レイの言う通り、お花を摘むのはやめましょう……ね……? イグレーヌを……連れてきて、一緒に見るのはどうかしら……」
「う……うん。そうする」
 こくりと頷き、レイに視線をうつした。
「お兄ちゃん……ごめんね」
「俺にあやまるのは筋違いだぜ」
 レイはばつが悪そうに横を向いた。
「おはなさん、ごめんね」
 ファは再びしゃがみこみ、優しくそのつぼみに口づけた。
 レイとソフィーヤは、すぐ近くに立つ古木の下に腰掛けた。双方口を開く気配はない。
 やがて、レイが重い口を開いた。
「……あのちっこいのに」
 相手に聞こえるか聞こえないか、ほんの微かな声だった。
「言い過ぎたって……言っといてくれよ。大体、よく考えれば摘む摘まない以前に、あと何日か経てば、兵士に踏み潰されるのがおちだよな。……じゃ」
 ソフィーヤは立ち上がろうとするレイのローブを軽くつかみ、顔を真っ直ぐ見上げた。
「レイ……それは自分の言葉で伝えなくちゃ……意味がないわ……」
 その言葉を聞いたほんの一瞬、レイの瞳が母親にたしなめたれた子供のように曇った。
「……そうだな」
 二度目の長い沈黙を経て、ソフィーヤがつぶやいた。
「……もうすぐ……イリアにも春が来るのね……」
「ああ」
 レイは古木の幹に腕を組んで寄りかかった。
「春というのは……どんな……感じなのかしら……」
「知らないのか」
「ええ……ナバタの里には四季がないから……本で読んだことしか……」
「そうだな……まず日差しが暖かくなって、雪が溶ける。溶けた雪が、小川をつくるんだ」
「まあ……川を……?」
 知らず声が弾んだ。
「それから、冬眠していた動物が起きだして、木に新芽が出て、花が咲いて、暖かい風が吹くようになって……思いつくのはこんなもんだな」
「すごい……」
「あとは、人間も浮かれはじめるな。俺には到底真似できないけど」
 皮肉をこめて笑いながら、ソフィーヤのほうへ視線を下げた。
「すごい……すごいわ……」
 ソフィーヤはもう一度繰り返した。そして微笑んだ。唇の赤、うすく紅潮した頬、わずかに潤んだ瞳、そして向けられた視線に込められた暖かい思いは、雪の下に咲く春の喜びそのものだった。
 レイは言葉を失った。
「……レイ?」
 ソフィーヤが不思議そうにレイの顔を間近に覗き込んだ。息づかいも聞こえるほど近くに。相手の耳が赤くなっていくのを見て、ソフィーヤは白く冷え切った指でそれに触れた。
「どうしたの……耳が……」
 レイの叫びが雪原の沈黙を破った。
「さ、触るな!」

 はるか彼方で、幼い子供が短い両腕を精一杯振り上げて走ってくる。褐色の肌の背の高い女が、それを苦笑しながら追う。少女も、笑いながら手を振り返す。少年はひとり雪で耳を冷やしながら、己が身ににわかに芽吹いた春の訪れを必死に否定しようとしていた。
 天馬の羽がひとひら、その様子をあざ笑うかのように雪原に舞い降りた。




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