表紙



決別の赤





 その日、正妃の住まうベルンの離宮は華やかな空気に包まれていた。
 季節の花咲き乱れる庭園のもっとも広まったところには、大きな食卓が置かれていた。その上には透かし織りの卓掛が敷かれ、職人の手によってこまかな細工のほどこされた菓子がいく皿も並べられていた。焼き菓子、生菓子、遠い異国から運ばれた乾菓など、その種類たるや両の手足の指で数えても足りぬほどであった。菓子はどれも高価な甘味がふんだんに使用されており、甘いにおいが風にのって庭園中をふんわりと漂っていた。その周りには茶を満たした杯を手に、なごやかに談笑する貴婦人たちの姿があった。それぞれ春らしいやわらかな色合いの、野外用にあつらえた衣服を互いに褒め称え、たわいもない噂話に花を咲かせる。ただその花のいく重にも重ねられた花弁の下には、毒を塗りこめた鋭い棘が隠されていた。
 やがて貴婦人たちはこの宴の主催者で、離宮の主たる王妃の姿を見とめると、花に群がるみつばちのように、白粉の顔に人形の微笑を張りつかせ、衣ずれの音も上品にそっと距離をつめるのだった。
 その光景を、木陰からじっと見つめるひとつの影があった。年若い少年だった。少年は母たる王妃の命によって半ば強制的にこの場に引き出されたものの、茶会は女たちのものであって、たおやかでしたたかな花々の間に少年の居場所はなかった。だから、少年は傍観者となった。鮮やかな情景をその目にうつす傍観者のまなざしに、感情の色はなかった。
 そのとき、もうひとつの影が密やかに少年の横に近づいていた。
「ゼフィール様」
 だしぬけに声をかけられ、少年は無意識に腰にかけた剣に手を触れながら、声の主を目で追った。緑けぶる草のじゅうたんの上に、少年と同じ年頃の少女のひかえめな姿があった。ゼフィールは緊張をほどいて、幼なじみの少女に打ち解けた笑顔を向けた。
「ブルーニャか」
 名を呼ばれ、ブルーニャは初々しい笑顔を浮かべながら、衣装を軽くつまみ一礼した。編みこんだ濃い紫の髪に差した白い髪飾りがわずかにゆれた。幼さを残した丸みのある表情に差された紅は、少女の瑞々しさを引き立たせる淡いものであった。
「久しいな」
「はい」
 少女ははにかむように少しうつむいた。
「しばらく見ないうちに、変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ。一瞬、お前だとわからなかった」
 うっすらと化粧をほどこしたほおが、庭に咲くそれと同じばら色に染まった。
「茶会はどうだ?」
「至るところに王妃様の細やかなお心遣いを感じております」
 ゼフィールは「そうか」と短く答えた。
「ところで、ブルーニャ」
「はい」
「お前、花は好きか」
「……はい。とても」
「侍女の話によれば、裏庭に咲く花が今見ごろだという。私は花には詳しくないから、何の花かはわからないのだが……見に行くか」
「は、はい!」
 ブルーニャの表情が、ぱっと明るく輝く。けれど、それはすぐに陰りをおびた。
「しかし、今席をはずされてよろしいのですか」
「私が、そうしたいのだ」
 ゼフィールは首ひとつ振り、せんの瞳で女の群れを見つめた。
「この庭園の匂いは私にはきつすぎる。むせかえるような、花の匂いが」

 裏庭には、ふたりのほかは誰の気配もなかった。館内の警備が、茶会のほうへ集中しているためであった。
 ゼフィールとブルーニャはどちらも多弁な性質ではなかったが、それでも久方ぶりの再会とあって、語られる言葉は少なくはなかった。ブルーニャは時おり、横を歩くゼフィールにひたむきな視線をむけていたが、ゼフィールはそれに気付いてはいないようだった。同じように、少女の胸の高鳴りを知ろうはずもなかった。
 ゼフィールは花壇に歩み寄ると、花を見下ろした。こんもりと茂った緑の葉に、薄黄の小さな花がまばらに咲いていた。それを取り囲むように、大ぶりの花が、清楚な、白い花弁を風にゆらしていた。
「女というものは、どうして花を好むのだ」
「うつくしいからでございましょう」
「しかしやがては散る」
「けれどそれを知りながらも、花を愛さずにはいられないのです」
「そういうものか」
 ゼフィールはそうつぶやくと、屈みこみ、白い花を一輪摘んだ。
「お前の髪に良く映える色だ」
 ブルーニャは恥らって目をふせた。
「私などには、勿体無いお言葉でございます」
 ゼフィールは少女のようすを見て微笑した。
「花にそれぞれ意味をつける言葉遊びがあるそうだが、この花にはどのような意味があるのだ」
「花言葉でございますね。この花の花言葉は、確か」
 ブルーニャの真摯な視線が、真っ直ぐにゼフィールを射抜いた。
「決別」
 その言葉が発せられるか否か、ゼフィールがブルーニャの身体を突然激しい勢いで突き飛ばした。
「よけろ!」
 同時に、ゼフィールは腰にかけた剣を素早く抜き、自分に躍りかかった影に突きたてた。
「何者?!」
 ブルーニャもすぐさま状況を察知し、胸元に忍ばせていた一片の紙を取り出して、低い声でそこに書かれた呪文を読み上げた。細い指から鋭い雷が放たれる。それはゼフィールともみ合う男にあたることはなかったけれども、一瞬の隙をつくるには十分だった。その隙をついて、ゼフィールが男のわき腹を切りつける。あえて急所を狙うことはしなかった。ここで殺してしまっては、首謀者の名も暗殺者の命とともに闇に消えてしまうためだ。
 しかしよく訓練されたとみえる暗殺者は、己の仕事の失敗を悟ると、歯に仕込んでいた毒を噛み砕きそのまま地に伏せ息絶えた。残されたブルーニャは、しばし呆然と花の上に言葉なく横たわる男の死体を眺めてたが、我に返るとすぐさまゼフィールに駆け寄った。
「ゼフィール様、お怪我は……」
「花が」
 淡々とした声音が血の臭いに満ちた空気に響いた。ゼフィールはブルーニャに振り向いて言った。そこには、怒りも、悲しみも、憎しみすらもなかった。
「父上の遣わす客はいつも礼を知らぬ」
「まさか……」
 言葉を失い、ブルーニャは男の死体を再び凝視した。
「すまない。赤くなってしまったな」
 そう小さくつぶやくゼフィールの手には、先ほどの花がまだしっかりと握られていた。けれど白い花弁は、返り血によって赤黒く染まっていた。花だけではなく、ゼフィールの衣服や肌もまた、血にまみれていた。ただ瞳だけは、虚ろな黒い輝きをたたえていて、そこだけが際立って異質に見えた。
 そのようすを眺めて、ブルーニャは息を呑んだ。それから、長い裾を折り曲げながらおもむろにゼフィールの足元に膝を折り、頭をたれた。
「ブルーニャ、どうした。それでは、花が飾れぬ」
 ゼフィールの抑揚のない声に、ブルーニャは首を振って答えた。
「いいえ、殿下」
 ブルーニャはそのままの姿勢で、静かに言った。震えぬように、手を強く握った。生臭いにおいが、鼻をかすめる。血に埋もれた花々が、視界の端にわずかに触れる。
「ここが私の在るべき場所にございますので」
 その瞬間、娘は甘い香りに包まれた少女時代に別れを告げた。そして生涯忘れなかった。幼き日の単色の思い出にあざやかに浮かび上がる、決別の赤を。




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