表紙



雪原の灯火





 全身にまとわりつくように吹き荒れる吹雪をものともせず、二体の天馬騎士が上空に対峙していた。鈍色の雲が厚くたれこめる。冷気が容赦なく頬に刺さる。粉雪に視界がぼやける。そこはまさしく両者の故郷たるイリアの空だった。
 隊の長を助けんと槍を手に飛び出した部下を、シグーネは手で制した。まだ少女と呼んでも差し支えないほど年若い部下は、唇を噛み締め、目には悔恨の涙をうっすらと浮かべ、そのまま手綱を引きゆっくりと下降する。これはシグーネの騎士としての意地と誇りを賭けた最後の戦いであった。他の誰の手にも委ねることは許されない。それを部下も理解しているようだった。
 シグーネはふたたび、眼前の天馬騎士に向き直った。彼女もまた、シグーネの部下と同じほどに若かった。少女は無言でシグーネを見た。その瞳に浮かぶ光の強さは、雪にすらかすむことはなかった。
「イリア騎士の誓いは、わかっているね。遠慮はしないよ」
 少女はうなずいた。
「それを教えてくださったのは、あなたですから」
「上等だ、ティト」
 余裕の笑みを向けられて、ティトの表情が強張った。練習試合であってすら、一度もティト相手にシグーネが槍を落としたことはない。それを成しえたのは、ティトの姉で、前騎士隊長たるユーノだけであった。
「あなたは強い」
 その言葉は、皮肉でも強がりでもなく、口から自然と出たシグーネへの素直な賛辞だった。まったく勝てる気がしなかった。
「へえ? あんたが手放しで人を誉めるなんて、珍しいこともあるもんだ」
 エトルリア軍によって、すでに彼女の部隊は壊滅していた。名高きイリアの冬将軍さえエトルリア軍の攻勢を阻むことは適わなかった。シグーネの後ろにはすでに何も残されてはいなかった。騎士の誇りのほかには何一つ。
 戦場で積んだ経験からティトは知っていた。生のしがらみから開放された戦士は、強い。
 記憶の紐を手繰るように続ける。
「あなたの天馬はいつも空の一番高いところを飛んでいた。幼いころから見ていました、ずっと」
「光栄だね」
「決して、そこに届くことはないと、あなたの上の景色を見ることはないと思っていた」
 吹雪のなかにあっても、白い息とともに発せられる二人の声はあざやかに、強く響いた。
「でも」
 ティトは槍を頭上高く掲げ、大きく旋回させた。鋭い切っ先が雪を切り裂く。柄を握る指にありったけの力をこめる。
「越えてみせます、今ここで!」
「面白い! やってみな!」
 その叫びを合図に、二羽の天馬が翼を広げ、空高く飛翔する。同時に、互いの槍の長柄が激しくぶつかり合い、鈍く悲鳴を上げた。白の世界を貫く閃光のような一瞬であった。ティトは頭上から食らわされた槍の一撃の重みに、手綱を放し両の手で柄を握って、歯軋りしながらこらえた。天馬騎士同士の戦いでは、相手より上の位置にあるほうが有利とされている。それでもティトは不利な体勢でありながら、長い時間そのまま微動だにせず持ちこたえていた。
 一方、上を制したシグーネのほうは、唇に笑みさえ浮かべている。終わりを知らぬ沈黙のなか、吹雪のうなりとシグーネの白い外套がひるがえる音だけが響いていた。ティトは体を巡る血潮が死の予感に凍っていくのを感じた。やがて、最後の引導を渡すべく、シグーネはあぶみを踏む足に力をこめた。
「これで最後だ!」
 その言葉とともに、今まさに放たれようとするスレンドスピアの刃に自分の顔が映るのを、ティトは絶望と驚愕のまなざしで見た。しかし、その刃がティトを貫くことはなかった。突然、シグーネの体の均衡が崩れ、力が抜けたようになったのだ。
「チッ……」
 シグーネは小さく舌打ちした。槍の摩擦でわずかに溶けた雪に、交わされた柄が滑ったのだ。ティトは顔上げると、迷うことなくその隙を突いた。思考ではなく、戦士としての勘と経験がティトの体を動かした。イリアの空気に熱を奪われ、冷え冷えと研ぎ澄まされた刃が素早くシグーネの肩を狙う。
「覚悟!」
 しかし、機敏な動きと堅固な甲冑に妨げられて、刃先がシグーネの肉に至ることはなかった。シグーネは体制を立て直しつつ、愛馬を大きく旋回させた。
 短い邂逅ののち、二人の天馬騎士は一度距離を置いた。ティトは小さく息をつき、利き手をきつく握りしめた。ほんの数秒の交戦であったというのに、腕に強いしびれを感じていた。シグーネの騎士としての力量と経験の豊富さをまざまざと見せ付けられたようで、冷たい、いやな汗がじっとりと体中を這うように濡らす。けれど、シグーネの天馬の羽音が次第に近づくのが聞こえた瞬間、それは間をおかず、焼け焦げるような戦いの熱情に変わった。心地よい陶酔が天馬騎士たちの体を支配する。
「邪魔するんじゃないよ!」
 ふいに、シグーネが振りかえることなく背後の部下に鋭く命じた。援護のための手槍がティトに向けられて投げられようとした、ちょうどそのときのことだった。「しかし」と、シグーネを慕うゆえ、なおも戦う意思を見せる部下たちに、騎士隊長は自信に満ち溢れた笑みを返した。
「お前たちは生きて証人になればいいんだよ、このシグーネの勝利の瞬間のね」
 ティトの声が重なる。
「私は、負けません」
 二人は激しい風に乱れる髪を払うこともせず、ふたたび顔を上げて、雪と天馬の羽にけぶる敵の姿を、互いに目に焼き付けるように注視した。
 シグーネが槍を構える。
 ティトは拍車をかける。
「イリアの大地に落ちな!」
「参ります!」

「奥様」
 そう呼ばれて、窓辺に立って格子の隙間から外を眺めていたユーノは、我に返ったように振り向いた。小高い丘の上に建てられたエデッサ城からは、森と雪に覆われたイリアの大地が一望できる。もっとも、このときには激しい吹雪が吹き荒れていたため、目を凝らしても白色の他は何も見てとることはできなかった。
「ごめんなさい、ぼんやりしてしまって」
 背の丸い小さな老婆が、不安そうにユーノの顔を仰いでいた。
「奥様、どうか少しお休みください」
「どうして?」
 不思議そうにたずねるユーノに、老婆は幾度も頭を振って答えた。
「またそんなことを仰って……ここに居るものは皆、エデッサ城が占領されてからというもの、奥様がろくにお休みをとっておられないことを存じているのですよ」
 老婆は必死になって城主の妻に懇願した。
「私たちは、大丈夫でございますから。どうか、どうか」
 ユーノは優雅な仕草で膝を折って、足元に跪く老婆をやさしく抱き起こした。
「いけないわ、そんなことをしては。……そうね、わかったわ。少し、休ませてもらうわね。ありがとう」
 それから、ユーノは差し出された毛布を軽く羽織ると、石壁にもたれかかって座りこんだ。ところどころ結露の見える石の壁は氷のように冷たく、容赦なく生き物の体温を奪う。それでも、吹雪のなか天馬を駆るよりはずっと温かかった。窓の外に視線を移すと、先ほどと少しも変わらず外には雪が降りしきっている。ユーノは誰にも気取られないように、そっと左肩をさすった。このようなしんと冷えた冬の日には、古傷が鈍く痛んだ。それは、同期の天馬騎士である、シグーネとの訓練の最中に負ったものだった。シグーネは訓練であっても、決して手加減をしなかった。平生、要領がいい風を気取っていたが、シグーネは誰よりも不器用な人物であると、ユーノは感じていた。件の事故のあと、誰にも告げずはるか遠くの山まで怪我に効く薬草を取りに行って、黙ってユーノの家の前に置いていったものだ。
 ベルンの力が日増しに強くなる今のイリアにあって、シグーネはどの道を選んだのだろうか。夫は、妹たちは、娘は、そして仲間たちはどこで何をしているのだろうか。捕らわれの身では、便りが届くはずもなかった。生きているのか、それとも、死んでいるのか。不安がないといえば嘘になる。しかし、ユーノは夫や妹たちの力を信じていたし、何より、人にそれを悟られてはならなかった。あたりを見まわすと、おびえた表情で固まって暖をとる人々の姿が見える。そのほとんどは女、子ども、老人、病人たちだった。彼らには指導者たるユーノの落ち着いた態度と、不安すらかき消す笑顔が必要だった。長く騎士隊長を務めていたユーノは、それを理解していた。
 ユーノはゆっくりと目を閉じた。自分で思っていたよりもずっと心身ともに疲れているようだった。目を閉じるとすぐに、意識がまどろみのなかに溶けこんでいく。まぶたの向こうに、イリアの地をあとにする、夫の背が映った。空に消えていく、妹たちの天馬が残した軌跡が見えた。春が来たように笑う、娘の笑顔があった。やがて、すべての意識を手放すと、静かに深い眠りへと落ちていった。
 夢を見た。ユーノは天馬に乗っていた。手綱を取るのは久方ぶりだというのに、手になじむことは以前と少しも変わりなかった。眼下には果てなく続くイリアの雪原が広がっていた。ユーノは目を細めてそれを眺めていた。空は明るく、風は冷たいながらも肌に心地よく、唇が自然とほころぶ。
 ふいに視線を落とすと、雪原に、人のものと思しき足跡が点々と残されていた。それを見るユーノの表情が翳った。やがて夜になれば、この足跡は新たに降る雪に消されてしまうだろう。はじめから、そこには何一つ存在しなかったかのように。
 けれど、とユーノは考える。それでも人は歩きつづけなければならない。たとえ、すべてが雪に埋もれ、後に影すら残らなかったとしても、深い雪に足をとられ思うように進めなくとも、歩けども歩けども終わりの見えない、果てしなく広がる雪原に絶望しても。わずかの灯火を道標に、前に進まなければならないのだ、この大地に生きている限りは。
 そのとき、はるか前方に足跡の主の姿が見えた。ユーノは目を凝らした。女のようだった。その後姿は、ユーノの知る人物によく似ていた。ユーノはよろこびに頬を紅潮させ、拍車をかけた。天馬の羽が空気を振るわせる。ユーノを乗せた天馬はぐんぐんと速度を増していった。やがて、相手の表情がはっきりとわかるほど近づくと、ユーノは声の限り友の名を呼んだ。女は立ち止まり、振りかえった。そして、大空を舞う天馬の影を目にとめると、天を仰ぎ静かに微笑んだ。
 それを見るユーノの頬を、音もなく涙が伝っていった。




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