表紙



赤い果実





 戦さの合間の小休止、若い弓兵ウォルトは、戦術の師たる騎士ランスに教えを乞うていた。晴天にはかがやく太陽、木陰に腰を下ろし草の上に広げた書物の項を指で差し示す。木の葉の落とす影も、身振りととまなざしからにじみ出る誠実さまでは覆い隠すことができなかった。そこにあるのは、極めて純粋な向学心だった。ランスははっきりと表には出さなかったものの、それを快く思い、応えて丁重に説明した。
 しばらくして、ウォルトがふいに何かを思い出したように、書物からひょいと顔を上げた。
「ランスさま、お腹すいていらっしゃいませんか。いいものがあるんですよ」
 そう言いながら腰に下げた袋を探る。ランスが何事かと黙って様子を見ていると、やがて袋の中から、手のひらにすっぽり収まるほどの果実が取り出された。それは、目が覚めるように赤かった。血よりも夕暮れの空よりも、ずっと赤かった。
「召し上がりませんか。ふたつ持ってきたんです」
 ランスは驚いたように目を見張った。
「どうなさいましたか?」
「いや」
 それからねんごろに、まことの親切心からくるその申し出を辞退した。
「今はあまり腹は空いていないから」
「そうですか」
 残念そうに呟く弓使いの手の上で、よく熟れた小さな赤い実が、いく度もいく度も一定の調子に乗って、弾けるように飛び跳ねた。くるくると回る赤い点が青い空に混じることなく、くっきりと浮かび上がる。
 しばらくしてウォルトは手を止めると、その果実をじつにうまそうに口に運んだ。それを見て、隣に座るランスが怪訝な顔をした。
「ウォルト」
「はい、何でしょうか?」
「この実は」
「おいしいですよ」
「それならば、いいのだが」
 ランスはそう答えたものの、なお腑に落ちないというような表情をしていた。
「酸味が」
「え?」
「強くはないか」
「……そうですね、少し酸っぱいかもしれません。でも慣れれば結構いけますよ」
「そうか」
 短く答えながら、目の前でしゃりしゃりと小気味よい音を立ててかさを減らしていく赤い実について、ランスは彼らしく無言で思考をめぐらせていた。
 季節になると、この果実はランスの故郷にもそこかしこになって、鈴のように枝を重たげにたらし、山や森の緑に鮮やかな彩りを添えていたものだった。しかし、どんなにその皮がつややかで、その甘い香りが食欲をそそるものであっても、生で食する者はいなかった。そうするには耐えられぬほど酸味が強いのを、皆、暗黙のうちに了解していたのだった。かつてランスの口にしたことのある果実は、いつも煮るなり焼くなり調理されたものだった。だから、時折、子どもが誤って口にする以外、これをそのまま食べることはないのだと、ランスは思いこんでいた。
「食文化の違い、か」
「何か仰いましたか?」
「すなまい、独り言だ」
「この実には、思い出があるんです」
 うすべに色の果汁のついた指をなめてから、だしぬけにウォルトが言った。
「思い出?」
「はい」
 うなずいて、晴れやかに笑う。
「これを食べると、自分がいかに幸せか、実感できるんです」
「それは」
 ウォルトは照れたように頬を軽くかくと、木の幹にもたれかかった。
「少し、昔話をしてもいいでしょうか。ランスさまがフェレにいらっしゃる前、ぼくがまだ小さかった頃の話です……」

 リキアの小領主のひとりであるフェレ候の館の回廊を、戦いを控えた騎士のように背を伸ばし、ずんずんと勢いよく勇んで歩く者があった。
 彼に出会った召使いたちは一様に口に手を当て、声を殺して笑った。その威勢のいい人物は、年のころは八つほどの子どもであって、短い足は勇んだ割りにはあまり距離を進めてはいなかったから。
 いくらか歩くと、子どもは足を止めた。そして、空を見上げた。しかし、空は何も答えてはくれない。
 草原の上にごろりと横になった。しかし、雨上がりの草の匂いも、心を癒してはくれない。
 小さくため息をついた。しかし、口から漏れた息は、ぐるりと遠回りをして、結局自分の耳に帰ってくるばかりだった。
 そこで子どもは何だか自分が惨めに思えて、おいおい泣きはじめた。
「おおい! ウォルト!」
 突然後ろから声をかけられて、幼いウォルトは袖でぐしぐしと涙をぬぐってから振りかえった。そこには、訓練の帰りと思しき騎士見習いの少年の姿があった。顔には大小の傷が何本も走っていたが、笑顔の気安く朗らかなことは普段と全く変わらなかった。子どもはかすれた声で相手の名を呼んだ。
「アレンさま」
「どうした、元気がないな。ロイさまと喧嘩でもしたのか?」
 心に暗くたちこめている悩みの種を、そのものずばりと率直に指摘されて、ウォルトは声をつまらせた。拭ったはずの涙が、堰を切ったようにあふれ出てくる。
「……図星か」
 大きな目に浮かんだ涙が丸いつぶになって、ぼたぼたと頬をこぼれて落ちていく。それを見て、アレンはひどく焦ったようだった。大きな、温かい両の手のひらで、ぐいとたどたどしくウォルトの頬をぬぐった。
「す、すまん! 言い方が悪かった」
 けれど、それでも嗚咽を漏らすばかりで泣き止むことのないウォルトへの対応に、さらに数分ばかり困惑したあと、アレンはえいとばかりに小さな体を持ちあげて、穀物の入った袋のように小脇に抱えると、裏庭近くにある井戸の際までその格好のまま運んでいった。それから、召使いに言って一杯の水をもらって、ウォルトにそっと手渡した。
「まあ、これでも飲んで落ち着け」
「あ、がとう、ございますっ……」
「いい、いい。無理にしゃべるな」
 喉の音も高らかにごくごくと水を飲み干す姿を見てやっと、アレンは安堵を覚えて呟いた。
「しかし、ロイさまとお前が喧嘩なんて珍しいな」
 アレンの言う通りだった。ウォルトと乳兄弟であり、近い将来主君となるはずの少年ロイの二人は、生まれてこの方、喧嘩らしい喧嘩もやらずに過ごしてきたのだ。双方どちらかというと我慢強く、大人しい性質の子どもであったから。
「それで、何が原因なんだ?」
 ウォルトはそれには答えなかった。喧嘩の原因など、すでに忘れてしまっていた。残っているのは、胸に焼けつくような激しい怒りだけだった。だから、ただ確信の持てる事実だけ口にした。
「……ぼくは、わるくありません」 
 アレンはそれを聞くと、腕を組み、ううんと唸ってしばらく考え込んだ。
「そうか、そうだな」
 ウォルトはアレンの答えを期待してはいなかった。子どもの視線は大人が思っているより、ずっと率直に世の中を見ていた。大人は皆ロイの味方なのだ。
「両方悪いんだろうな」
 まったく予想外の返答に、二つの大きな瞳が動きを止めて、きょとんと不思議そうにアレンを見つめる。
「え?」
「喧嘩というのはな、対等でなければできないことだからな」
「たいとう、ってどういういみですか?」
「ええと……」
 アレンは頭を掻いて少し考えてから、ウォルトの視線と交わるように、その場に腰を低くして座りこんだ。
「こういうことだ。わかるか?」
 ウォルトは赤くはらした目をしばたたかせながら、こくりとひとつうなずいた。
「……なんとなく」
 アレンはそのままの姿勢で、ウォルトを見つめて諭すように言った。
「つまりだ。本当は、わかっているんじゃないのか? 自分も悪いってことが」
「ぼくは……」
 それまで心をすっかり支配していた燃えるような怒りが、水を浴びせられて徐々に勢いを失っていくようだった。口ごもるウォルトに、先ほどまでの真剣さとはうって変わったくだけた口調で、アレンは笑って言った。
「おれはあまり頭がよくないからな、難しいことはわからん。でも、これだけは言えるぞ。喧嘩できる友達がいるってことは、幸せだ」
 それから小さな頭を荒っぽく、けれどやさしく、ぐしゃぐしゃと掻きまわした。

「ごめん、ごめん、ごめん」
 アレンに背中を押されて、勢いづいたウォルトは、歩きながらロイに会ったら一番に言うつもりの言葉を、指折り数えて何度も口に出して練習した。
「ごめん、ごめん、ごめんなさい」
 ちょうど三十七回目のごめんが空に溶けていったとき、それまで深閑としていた館の裏庭の方から、珍しく慌てたマーカスの声が響いてきた。
「ロイさま!」
 木に止まっていた鳥がいく羽かその声の大きいのに驚いて、羽音を残して飛び去っていった。その瞬間、頭で考えるのをひと飛びに通り越して、ウォルトの足は裏庭のほうに向かっていた。
 そこで目にしたのは、今まさに、ウォルトの友人の小さな体が、高い木の上からすべり落ちて、宙に放り出されたところだった。地に落ちようとする木の葉も、空を飛ぶ鳥も、驚き口をあんぐり開ける召使いたちも、ロイを受け止めようと手を伸ばすマーカスも、すべてを包みこむように流れる風も、あらゆるものの動きがひどく緩慢であるその光景は、現実離れしていて、まるで夢のようだった。けれど、ウォルトはそれが夢でないことを知っていたから、友人のもとに急いで駆けよった。
「ロイ!」
 ロイの体はマーカスの腕のなかにすっぽりと収まっていた。青い顔のウォルトは、ロイの周りに集まった召使いたちの間を、子どもの特権ですばしっこくすり抜けて、ロイに飛びつくように近づいた。ウォルトの色を失った表情が目に入ると、ロイは声をあげて笑った。
「あれ、ウォルト、どうしたの。かおがペガサスみたいにまっしろだ」
 のんきな声にウォルトは全身の力が抜けていくのを感じた。
「どうしたの、って……」
「ウォルトの申す通りです、ロイさま。なぜ急に木にお登りなどと」
 ロイの体に怪我ひとつないことを確認したマーカスが苦く言うと、ロイは手に握っていた赤い実を示すように上に上げた。
「これ」
 驚くウォルトの目の前に付きつける。
「あげようと思ったんだ。おいしそうだろう?」
 目の前にはロイがいる。今こそ練習の成果を見せるときだと、ウォルトは思った。頭の中でもう一度復唱しておこう。ごめん、ごめん、ごめんなさい。
「ばか!」
 その場にいた全員が地鳴りでも起こったのかと思うほど、激しいウォルトの一声が空気を振るわせ、ロイの耳を直撃した。大人たちは唖然としがら、ロイは目を白黒させながら、顔を赤くして怒るウォルトを見た。
「ウォルト……」
「ばか、しんじゃったらどうするんだよ、ロイのばか、ばか、ばか!」
 気の済むまで言葉をぶつけると、ウォルトはうずくまってわあわあ泣きはじめた。それを見たロイの目にも涙が浮かんだ。
「ごめん、ウォルト」
「ばか」
「ごめん」
「ばか」
「ごめん」
「ごめん、ごめん」
「ごめんなさい」
 重なる声はやがて口からぼろぼろとこぼれるだけの嗚咽に変わった。二人はむせび泣きながら、赤い果実をかじった。それは涙に滲んだ視界にもはっきりと赤く、目の覚めるような酸い味だった。

 あるとき、所用があってロイの宿舎を訪れたスーは、卓の上に見なれぬ赤い果実があるのを目にした。
「食べてもいいよ」
 そうロイに言われて、好奇心のまま口に運ぶ。途端に、スーの眉間に深いしわが寄った。
「……酸っぱい」
「はじめはそうかもね。でも、慣れるとおいしいよ」
 自分がこの味に慣れる日は恐らく来ないだろうと感じたので、スーは何も答えなかった。
「この果物には、思い出があるんだ」
 ロイも果実のひとつを手に取る。
「何?」
 腰にかけた剣の柄を、ロイはスーに示すように指でとんとんと叩いた。
「剣の力というのは恐ろしいね。こうして、偉そうに軍隊を指揮していると、皆なかなかぼくに対して本音が言えなくなるみたいだ。例えば、ボタンを掛け違えているとか、マントが裏表逆だとか、寝癖で髪の毛が逆立っているとか。それ以外にも色々あるけれど」
 そう言って赤い実にかじりつき、満面の笑顔を浮かべた。
「だからこれを食べると、自分がいかに幸せか、実感できるんだ。ぼくが間違った道を選ぼうとしたり、無茶なことをしたとき、本気で怒ってくれる友達がいる、そんな幸せをね」




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