表紙



弓ひく指先





 それは戦場にあって、あまりにも似つかわしくない光景だった。
 品のある、若い白馬の上に、妙齢の娘がふたり腰をおろしていてる。
 血走った目の敵兵が獲物に群がる獣のように、無防備にその身を曝け出す白馬目がけて次々と押し寄せてきた。
 しかし、少女たちは軽々と身をかわし、あるいは反撃して、婦人にするには手荒なその誘いを、頑なに拒み続けた。
 やがて血なまぐさい空気を叩き割って、少女のひとりが高い声を上げた。
「ドロシー、あそこ、見えまして? シューターですわ。扱いは心得ていらっしゃるわね?」
「はい!」
「わたくしが援護しますわ! ご武運を!」
「クラリーネさんも」
 言い残すと、ドロシーは馬上からひらりと降り立った。
 そうして、絶え間なく浴びせられる敵の攻撃を素早く潜り抜けながら、シューターの木桿を握った。
 目標は敵軍の城壁。
 射手の鋭い視線が敵兵の姿を探る。
 だしぬけに、ドロシーは小さく呟いた。
「いた」
 桿を握る手が汗ばんだが、構わず指に力をこめ、前に倒す。
 矢は弧を描きながら、城の石塀に溶け込んでいった。
「当たりまして?」
 魔道書を片手に波と押し寄せる男たちを蹴散らしながら、クラリーネが叫んだ。
「わかりません」
 ドロシーは答えた。それは真実だった。
 目標があまりに遠すぎて、本当にわからなかったのだ。
 そのとき、ドロシーは目の前が真っ暗になったような錯覚をおぼえた。背筋に冷たいものが走る。自分の口から出た言葉の意味をふいに実感し、ぞっとしたのだ。
 己の放った矢によって、ひとつの命が絶えたかもしれないというのに、自分はそれを知らないと答える。
 やおら桿を握る手が震えはじめた。歯がうまく噛み合わない。
「ドロシー、どうしたの! しゃきっとなさい」
 ぼんやりと視線を宙に泳がせるドロシーに、クラリーネが鋭く声を張り上げた。
「わたくし、あなたが死んでしまうなんて、許しませんことよ、許しませんから!」
「は、はい!」
 クラリーネの迫力に気圧されて、ドロシーは頷いた。
「聖女様、エリミーヌ様」
 奥歯に力をいれ、自分の両頬をぱし、と強く叩いて、前方をふたたび見据える。
「お願いです、あたしの罪を赦さないでください」
 呟きながら、シューターを操り、矢口を城に向けた。
「そのぶん、矢の向こうの人の罪をお赦しください」
 青い空を横切ってのびる矢の軌跡を、ドロシーは目を逸らすことなく見つめ続けた。





 スーは、全身に身を切るような夜風を浴びながら、サカの草原を眺め渡した。
「少し放っておいて」
 白い息を吐き出しながら、背後に声をかける。
 影のように無言で付き従っていたシンは、その言葉のままに闇に姿をくらました。
 草原の夜は冷える。
 スーは軽いくしゃみをひとつし、獣の皮で作られた上着を手繰り寄せた。
 空を仰げば、月が凍てついたかがやきを放っていた。
 竜をめぐる戦いは終わった。だのに、心は晴れなかった。
 次第に、目に映る月の姿が歪んでいく。

 その日のまだ明るい時分、ダヤンはスーを呼んで遠乗りに出かけた。
 そこで、幼い頃そうしたように、ふたりで矢の遠投を競った。
 スーの矢は子どもの時とは比べ物にならないほど遠くに飛んだので、満足そうに微笑んだ。
 しかし、ダヤンの番になって、その表情が凍ったようになった。
 弓ひく祖父の腕が、小刻みに震えるのを目にしたからだ。
 そこからスーは敏感に、老いの臭いを感じ取った。
 スーの視線が横に立つダヤンから大地に落とされた。
「目を逸らすな」
 ダヤンは弦を緩めることなしにそれを見、厳しい口調でたしなめた。
「いやだ」
 スーは棒立ちでうつむきながら、いつになく強く言った。
「見たくない」
「スー、賢き娘よ」
 幼い子を諭すように、ダヤンは静かに言葉を選んだ。
 それは静かでありながらも力強く、かつて膝に乗ったスーにせがまれて、昔語りをしたときの声音に似ていた。
「走る馬はやがて止まる。風は長い旅を終える。星は地の果てに落ちる。それと少しも違わない」
 そのとき、ダヤンの放った矢が、鋭く音をたてて草原を駆け抜けた。
 スーの聡い耳は、目よりもずっと正確にその情景を見た。
「これからは、お前が部族を守る弓をひくのだ」

 スーは獣のように丸くなって、大地に身をおいた。
 これまで、スーは夜が嫌いだった。
 ベルン侵攻の夜を思い出す。耳を澄ませば、闇の奥から敵の刃のこすれあう音が聞こえてきそうだった。
 しかし、今は違った。
 闇に紛れてひとり泣く悲しみを知った者に、夜の静寂はひどくさやしい。





 穏やかな光に満ちた午後のアクレイア王宮の回廊を、ひとり歩む若者がいた。
 その風貌は、顔に射す陽光と同じように、穏やかで明るいものだった。
「クレイン」
 名を呼ばれて、クレインは振り向いた。
「セシリア将軍」
 クレインの視線の先には、静かに微笑む魔道軍将の姿があった。
「久しいわね」
「本当に」
 クレインは頷いた。
「お久しぶりです。士官学校の演習で、東方に遠征されていたとか」
「ええ、帰還したのはつい先日よ。それより」
 セシリアの観察するような視線が、文官服を身に付けたクレインを眺め回した。
「弓を置いたという話は、本当だったのね?」
「ええ」
「正直なところ、少し残念ね。あなたなら、武官としてもうまくやっていけたと思うけれど」
 クレインは少年のような光を瞳に浮かべて応えた。
「部下に手厳しいことでご高名の将軍からそのようなお言葉をいただけるとは、光栄の極みです」
「まあ、言うわね」
 青年の真摯なまなざしを受け止め、セシリアは悪戯っぽく目を細めた。
 クレインは続けた。
「けれど、私はこの道を選んだことを、後悔しておりません」
「少しも?」
「はい、少しも」
「でも、あなた確か、ミルディン王子の騎士になるとか言っていたそうじゃないの、子どもの頃に」
 それを聞いたクレインの顔がみるみる赤くなっていった。
「……それは、誰に……」
「さあ、誰でしょうね?」
 からかうようなセシリアの語調から推測しなくとも、話しの出所は誰か、クレインはすぐに理解した。
 クレインは落ち着きを取り戻そうと努力したが、困った風な表情をすっかり消し去ることはできなかった。
「これからは文官として、王子が苗床をお植えになるための、肥沃な土壌を作るのが私の役目です。弓のかわりに鋤を手にして」
「もう、いっぱしの文官じゃない。頼もしい限りね」
 セシリアは柔和な笑みを向けたが、クレインはその下に鉄の如き強い意志が秘められているのを知っていた。
 ゆっくりと、やさしく、しかしはっきりとした口調で、セシリアは言った。
「クレイン、あなたがこれから戦っていくのは、血を見ない白い戦場よ」
 言いながら、セシリアは手袋をはめたクレインの指にふれた。
「けれど、あなたならあるいは、生き残ることができるでしょう。この指先の痛みを忘れなければ」
 クレインは沈黙し、目を見開いた。
 セシリアは知っているのだろうか。この手袋の下に、長きにわたる弓の鍛錬がもたらした、幾多の傷が今なお刻まれていることを。
 そして彼の指先はまだ、弓ひく感触を忘れていないことを。
「……はい」
 クレインはただ短くそう応えて、頷いた。
 セシリアはクレインの手をとり、それから戦友にするように、力強くその手を握った。




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