表紙



聖女の箱庭





 その修道院はエトルリア西部に広がる平野の、寒村からわずかに離れた丘の上に建っていた。訪れる者も少ないこの古き高き聖なる箱庭は、聖女の白いかいなに抱かれるようにして、人の命の連鎖を首飾りほど繋いで輪にした時間、不可侵の沈黙を守り続けていた。
 夕刻、その沈黙を破るように、一人の男が衣擦れの音も荒く、石の回廊を進んでいた。
「ヨーデル殿」
 だしぬけに、後ろから声をかけるものがあった。ヨーデルは柔和な表情を崩すことなく、しかし目には強い光をたたえて、ゆっくりと振り返った。
「これはウィンダム殿」
 視線の先の顔が歪んだ様子を、ヨーデルは一瞬、笑みを浮かべたのだと理解できなかった。
 ウィンダムはゆったりとした僧服の袖に交互に腕を入れながら、乾いた唇の端をさらに引き上げた。入り日の光の鋭い筋が、その表情に深い影を落とす。壮年と呼んで差し支えない年齢であるのに、そのまなざしからは、抜け目ない老獪さがにじみ出ているようだった。ただ、傍目から見てそれとわかってしまう未熟さが若さの証かも知れないと、老僧は考えていた。
「どちらにお急ぎで」
「つまらぬ所用でございますよ」
 ヨーデルはそ知らぬ顔でこたえた。返答を聞かずとも、相手の胸に、すでにその答えがあるのは明らかだった。
「失礼」
 わずかの沈黙のあと、短くそう言い添えると、ヨーデルは僧衣の裾をつとひるがえし、踵を返した。
「墓場の主に宜しくお伝えください」
 背に投げかけられた悪意には沈黙で答えて、老司祭は歩調をさらに速めた。

 僧侶たちの物言わぬ亡骸が多く眠る墓所は、僧院の裏手、平野を一望できる丘の際にひっそりとしつらえてあった。夕暮れに赤く染まった墓碑に各人の名は見当たらない。死後、全てのものは等しく神の御許に召されるのだ。もっとも、俗世の人々にあっては魂の平等など、空虚な睦言にも足らぬ言葉であった。それは聖なる庭にあっても、そう変わらなかった。
 ヨーデルは人気のない墓所に足を踏み入れると、墓石のひとつに目を留め、それから視線を下に移した。そこには小さな獣のような塊が、微動だにせず、固くうずくまっていた。
「サウル」
 穏やかな声が名を呼ぶと、はじめは耳がぴくりと反応し、それから瞼が、背が、腕が、指先がというように、順々に塊はゆっくりとほどけて、やがて十を少し過ぎたばかりの少年の姿になった。
 少年の大きな瞳はしかし、眼下に広がる平野を見つめるばかりで、ヨーデルを見ようとはしなかった。
 ヨーデルはそのような態度にも慣れている風で、彼と話すときにはいつも、独りごとじみた言葉を淡々と続けるのだった。故郷を離れて以来、少年は庇護者たる老僧に対しても、決して距離を縮めようとはしなかった。
「ここにいたのですね」
 少年は答えなかった。ヨーデルは少年と同じものを見ようと、顔を上げた。
「この場所は死の臭いが強すぎる。お前のような若者にとってはとりわけ」
「しかし」
 冷涼な空気を割って、高い声が響いた。
「死者たちの声は、生者よりよほど静かです」
 サウルは僧服についた土と枯れ草を億劫そうに払いながら、重い腰を上げた。
「あの聖なる箱庭は、うるさくて適いません。耳をふさいでも聞こえるほどの。ああそうだ」
 ここではじめて、サウルはヨーデルを振り向いた。まなざしに浮かぶ皮肉が、幼さ残る容貌にあまりに不釣合いなのを、ヨーデルは静かに見つめていた。
「墓場の主は壮健であると、どうか皆さまにお伝えください」

 エリミーヌ教団本部からの密命を受けて各地を転々とする司祭ヨーデルが、次の指令が下されるまで滞在すべくこの修道院を訪れたのは、つい三月前のことであった。彼はその際、一人の子どもを連れていた。父母を亡くしたこの子を引き取って欲しいとの申し出を、修道院長は快く承諾した。
 しかし、この小さき庭で日々聖女への祈りの捧げる者たちの全てが、彼らを手放しで受け入れたわけではなかった。ヨーデルに課せられた任務は教会組織の裏側、いわば異端にあって、清き生活を送る一般の僧侶の目にはきな臭いものとして、また、立身出世を狙うものにとっては逆に、激しい嫉妬の対象として映っていた。特に、古い歴史を持ち、地理的には教会本部の近くにありながらも、貴き地位に縁遠いこの修道院では。
「ふん、忌々しい」
 写字室の扉から現れた少年の姿が目に入ると、ウィンダムは鼻息も荒く嫌悪の情を露にした。身の程をわきまえない若造に力の差を見せつけるつもりで吹きかけた問答に、逆にこっぴどく負かされた屈辱は、まだ記憶に新しかった。
 ウィンダムは一息ついてから取り巻きに目配せすると、顔に笑顔を貼りつけ、悠然とした物腰でサウルに近づいた。
「お前は勉強家ですね」
 振り返るサウルの肩が強張った。
「未熟者ゆえ、学ぶことは尽きません」
「はは、幼いわりに、謙遜という言葉をよく知っておる」
 細めた目が少しも笑っていないのを、サウルは見逃さなかった。
「……申し訳ございません、ウィンダム様。師から急ぎの用を申し付かっておりますので、これで失礼致します」
 それを聞くと、他人の耳に入るのを避けるように、ウィンダムはサウルの腕を掴んで引き寄せ、そっと耳元で低くささやいた。
「礼をわきまえないことは師と同じだな。ヨーデルの裾持ちが」
 仮面のように色のなかった表情に、一瞬、閃光のような激しい憤怒の筋が横切るのを、ウィンダムは愉しげに観察していた。
 裾持ちとは祭事の際に高位聖職者の長い裾を持って付き従う、位の低い僧侶を指す言葉である。すなわち、出世を望めぬような、能力の低いものを揶揄する隠語でもあった。聖なる庭は直接的な表現が用いられない分、このような言い回しは豊富にあった。
 瞳に燃え立つような激しい嫌悪を浮かべ、サウルは力任せに腕を振り払った。
「ふん、小生意気な。墓場にしか己のあるべき場所を見いだせぬはぐれ者だというのに」
 ねっとり絡みつくような視線が、サウルの白い手を眺め回した。
「父と母を亡くしそうだが……この手は、平民のものではないな」
 少年を見下ろす目の色の濁りは、蛇や蛙を思わせた。
「お前の過去を詮索するほど、私も暇ではない」
 目の前の小柄な体を走る緊張を見とめると、ウィンダムは勝者の傲慢さを露にした声で、低く笑った。
「だが覚えておけ。その気になれば、お前を捻りつぶすことなど、地に這う虫を踏み殺すより容易いことを」

 明朝、ヨーデルは聖堂に向かうサウルを見、駆け寄りながら、驚きに声をつまらせて言った。
「その手は」
 光の書を持つ白い手は、せんの繊細さの見る影もなく、肉の色も生々しい幾本もの傷が走っていた。サウルはヨーデルをちらと一瞥したが、歩く速度をゆるめることはしなかった。
「待ちなさい、サウル」
 だしぬけに、ヨーデルの手が少年の細いそれを掴んだ。その刹那、サウルの脳裏に昨日の出来事がよみがえった。サウルは伸ばされた手を、強い調子で払いのけた。乾いた音が朝の空気に響き渡った。
 その音に目を見張ったのは、サウルのほうだった。少年は自分の手と、ヨーデルの顔をまじまじと見比べた。ウィンダムの手を拒絶したのは、純粋な嫌悪からであった。しかし、今は違った。その行為は単純な驚きと動物的な反射によるものだった。その場であやまれば、いくらでも取り繕うことはできたはずだ。口を開こうとした。だが、胸に言い知れぬ苦しみがそれを許さなかった。サウルはもう一度、師の穏やかな顔を仰ぎ見た。そうして、理解した。相手の顔に失望がないのが、彼を失望させのだ。
 師は呆然と自分を凝視する弟子に、気遣わしげに声をかけた。
「サウル、どうしました……サウル!」
 サウルは矢も盾もたまらない様子で、石畳に叩きつけるような足音だけ残して駆け出した。心にうまれた懐疑と恐怖が、少年をそうさせた。彼が師を慕うほどには、師は彼を好いてはいないのではないのだろうかと。またそう思わず入られない、己の子どもじみた浅はかさを恥じた。しかし、どうすることもできなかった。今まで大人の仮面を無理にかぶって隠してきたものを、何の前ぶりもなく暴かれたのだ。少年の未成熟な心は混乱していた。混乱は心を負の方向へと、いたずらに転がしていく。墓所へ、冷たい石だけが待つ墓所へ行かなければ。父母のもとへ。ここはひどく息がつまるのだ。
「おっと、そのように慌てた様子で、一体どうしたのかな」
 そのとき間の悪いことに、サウルの眼前をちょうど通りがかったウィンダムが立ちふさがった。
「ふむ、静寂尊き僧院で走るなど、お前の師はどういう教育をしているやら」
 サウルは憎しみの色も露に、ウィンダムを鋭く睨みつけた。些細なきっかけに歯止めを失った幼い衝動は、留まる術を知らなかった。
「何だ、その目は? 私に……」
 少年はウィンダムの次に言葉を許さなかった。傷だらけの手で、魔道書の項を繰る。唇から、聖なる言葉があふれ出る。辺りの景色をゆっくりと、柔らかな光が包みこんでいく。
 ウィンダムは目を大きく見開いて、夢でも見るようにその光景を眺めていた。
「な、何……」
 サウルの指先が光を放ち、今まさに聖女の審判が下されようとしていた。
 壊し給え、このいと高き醜き箱庭を。
「やめなさい!」
 次の瞬間、サウルの目に入ったのは、額から血を流して床に伏す師の姿だった。

 夜半、救護室の戸の前にそっと立つ、小さな影があった。
「こら、ヨーデル。まだ寝ていろと言っているだろうに!」
 そのとき救護室の中から、薬師と思しき男の声が聞こえた。サウルは石の壁に身を寄せると、息を殺して中の様子を伺った。
「しかしあの子が」
「大丈夫だ、僧院長様のご判断を信じろ。罰を受けることにはならんだろう。ウィンダムの非も明らかだ。まあ、掃除くらいは仰せつかるかも知れんが」
「そうですか……」
「だが、この僧院にあの少年を置いていくのは薦められんな。もっと田舎か……もしくは教会本部に連れて行け。賢い子だ。あるいは、生き延びることができるかも」
 ヨーデルの声が険しくなった。
「本部に? あそこはさらに魔の窟です。子どもを連れてはとても」
「だが、ここにいては……」
「……情けないことですね」
「何がだ?」
「この世の中が、ですよ。幼い子どもひとり平穏に生きてはいけないとは。千年の時を越えてもなお人の本質は変わらず、聖女の言葉は虚ろに響くだけなのでしょうか」
「ヨーデル……」
「あの子をあわれに思います。子どもとは本来、人間としての本質が剥きだしなのです。大人になるにつれ、人は知識と経験で鎧を固めて本質を隠す。だのに、あの子は幼い時分からそれを強いられてきた。今回のことは、それが暴発した結果なのでしょう。良かれと思ってしたことが、結果的にサウルを苦しめることになったのかも知れません」
「だが、最終的に生き方を選ぶのは本人だ。少なくとも、修道院では食うに困ることはない。ある程度の年齢まで教団で教育を受けて、それから己が道を選ぶのも悪くはないと思うがね」
「わかっています。それでも」
 サウルはそこで、握り締めていた小さな花を床に置くと、嗚咽が漏れないように手で口を強く押さえ、足早にその場を去った。
 ヨーデルが彼の弟子の手をとって、修道院をあとにしたのは、それから数週間後のことだった。

 聖女の塔の白い壁を伝うように、飛竜の影が稲妻を思わせる速さで駆け抜けていった。手綱を引く女竜騎士が、後ろに乗る男に尋ねていった。
「サウル殿、次はどちらから?」
「右です」
 ミレディはそれを聞くと、素早く愛竜を旋回させた。次の瞬間、塔の頂上から放たれた神の矢が、輝く閃光を放ちながら、二人と一匹のすぐ横をかすめて過ぎて行った。
「かたじけない」
 生真面目な感謝の言葉に、サウルは軽い調子で答えた。
「いえ、こちらとしてもまだ墓穴には入りたくありませんから」
「それと」
「何でしょう」
「あまり強く腰を掴まないでいただきたい」
「おや、これは失敬。竜には乗りなれておりませんもので」
 ミレディは息をついて、次の指示を待った。
「今度は」
「左です」
 せんの調子でこれも避け、竜はさらに速度を増した。やがて、頂上付近に至ると、人目のつかぬところに男を下ろした。
「では、作戦の通りに」
「私ひとりではご心配では?」
 ミレディは短い沈黙のあと、ほんのわずか目を細めた。
「……信頼しておりますから」
 言う間にも、飛竜はぐんぐんと高度を増す。
「ご武運を」
「麗しき竜騎士殿に、聖女のご加護がありますよう」
 のんびりとした語調で、いかにも聖職者らしい言葉をかけると、サウルは魔道書を持つ手に力をこめた。
「さて、面倒な仕事は早くやっつけてしまいましょうかね」

 ウィンダムの心は、そのとき、既に神の近くにあった。瞳は焦点を失い、口から漏れでるのは乾いた笑いと、裁きを、滅びを、ただその二言だけであった。だから、その男が目の前に現れたときにも、とっさに彼であるとは気づかなかった。
「皆、滅びるがよい……なにもかも、消え去るのだ!」
「滅びるのは勝手ですが、ご自分だけに留めておいていただきたいところですね」
 響き渡る高らかな笑い声に応えて、サウルは階段をゆっくりと上りながら、呆れたように言い放った。足元には幾つもの物言わぬ肉塊が無造作に転がっている。
 その声に、ウィンダムはしばし正気を取り戻したかのように、声を絞り出した。
「お前……まさか……」
「私とて遊びは好むところ、しかし、ウィンダム殿。あなたは少しお遊びが過ぎたようだ」
「は、はは……貴様、そうか、ヨーデルの!」
「その名を軽々しく呼ばないでいただきたいですね」
 サウルは軽く肩をすくめた。
「忘れてはおらんぞ、わしは、貴様に受けた侮辱を! ヨーデルの裾持ちが! 恥を知るがよい!」
「だから申し上げたでしょう」
 聖句の詠唱をはじめるウィンダムに、若き司祭もまたおもむろに魔道書を開き、詠唱をはじめるそぶりを見せる。
 そのとき、大きな影がサウルの目の端に映った。上空高く姿を現したのは、せんの竜騎士であった。紅蓮の騎士の放った手槍が、一途に詠唱を続ける男の頭上に向かって滑るように落ちていく。陽光に輝く切っ先はまさに神の矢の如く、空をわかつ軌跡を描いていた。
「その名を呼ぶなと」
 サウルは西日のまぶしさに目を細めながら、祈りの際にそうするように、ごく静かな声音で言った。




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