表紙



幸運に愛された男





 目に映る天を埋めつくす竜の群れに、男はただ息をのんだ。ここが戦場であることを実感するには、十分すぎるほどの光景であった。男は軽い身のこなしで天幕に体を滑り込ませると、聖女に祈るでもなく、自分のなすべき仕事をこなした。すなわち、天幕のなかに山と積まれた武器をこの場から移す用意である。大規模な天幕は戦場において著しく目を引くうえに、有事にあって迅速にその場を離れることができない。指揮官はそれをおもんみて、敵の目につきにくい最後方に男の所属する部隊を配置したが、空からの襲撃となれば話は別である。
 男は眼前の手槍を手にとり、鋭い切っ先をじっと見つめた。敵の手に渡れば、味方によって鍛えられたこの刃が、味方の肉と命を断つのだ。男は身を震わせた。現実味を帯びていて、それゆえ、ぞっとしない絵図であった。
 そのとき、不気味なほど静まり返っていた外を守る守備兵たちの気配が、にわかにざわめきはじめた。何事かと、天幕のぶ厚い布をそっとわけ外をちらと覗かせた男の表情に、影が落ちた。
 それは、降下する竜の影であった。男と竜騎士の視線が交差した。竜騎士の手にした槍が、すばやく男のほうへと向けられた。男は目をそらすことなく、現実を直視した。部下のひとりが男の名を叫んだ。しかし、その声は竜の羽音にかき消された。男の視界がにじむ。これは額から伝った汗か、それとも恐怖からくる涙なのか、男自身にもわからなかった。
 青い空に、巨大な竜の姿が浮かびあがった。そうして、男に向けて手槍が放たれようとするまさにその瞬間のことだった。だしぬけに、凄まじいばかりの突風が起こった。突風は狙いすましたように竜騎士に襲いかかった。竜騎士は体勢を崩し、竜の背から転がるようにして地に落ち、動かなくなった。男と守備兵たちは、あっけにとられてその様子を眺めた。
 けれども、息つくひまなど許されてはいなかった。間をおかず、次の竜騎士が襲いかかる。その場にいるすべての者が、男の命の終幕を確信した。だが、どうせあたるはずがないと思ったものの、とりあえずやけくそで投げてみた男の手槍がなぜか竜の目を貫いた。竜はおぞましい叫びをあげながら、あさっての方向へと逃げていった。
 しかし、その後ろには、さらにもう一匹の飛竜が待ち構えていた。だれもが、今度こそもうだめだとつぶやいた。死を覚悟した男のひざが、がくりと力なく折れた。男の長衣が、竜の羽ばたきの起こした風にひるがえって、隠されていたすべらかな素足があらわになった。守備兵たちは思わず目をそらした。竜騎士も目をそらした。そのため、後方から仲間が放った槍に気づくのが遅れた。鈍い音がひとつして、竜は主を失った。

 ここで一度、竜騎士の攻勢が止んだ。その場にいる全員が、夢か幻でも見たかのように、言葉を失っていた。やがて、ひとりの守備兵が、なお空を旋回する数匹の竜を眺めながら、沈黙をきって、力強く言った。
「勝てる、勝てるぞ、俺たちは」
 兵士たちは顔を見合わせ、一様にうなずいた。
「ああ、あの人がいれば」
 その場を満たす空気に、先ほどまでの悲嘆と絶望はなかった。かわりに、根拠のない希望がなんとなく溢れていた。自らも命の危機に瀕しながら、それでも、落ち着き払った態度を崩さず天幕の前に座る男に、尊敬をこめた熱いまなざしが送られた。口には出さなかったが、みな知っていた。この男は、幸運の女神に愛されているのだと。

 しばらくして、一匹の竜の羽ばたく音が天幕に近づいた。竜の背から、ふたりの男が顔を覗かせた。
「間に合わなかったか」
 竜騎士と思しき男が、あたりを見回して言った。そこに生けるものの気配はなかった。
「もっと早く救援に来ることができれば」
「あの数じゃ、な」
 盗賊の風体のもうひとりがこたえる。
「しかし」
「来てどうなる?お前さんひとりでやっつけるつもりだったのかい?」
 若い竜騎士は何も言わず、眉頭にしわを寄せ、くちびるをきつくかみ締めた。ふいに、盗賊が眼下の一点を見て、つぶやいた。
「いや」
「どうした」
「諦めるのはちょっとばかり早かったようだ」
 竜騎士は怪訝そうに盗賊の視線の先を追った。その先には、天幕の影で戦いの疲れを癒す、兵士たちの姿があった。竜騎士は顔をわずかにほころばせた。
 しかし、そのほころびは、一瞬で緊張に変わった。
「あれは」
 兵士たちの中心に、微動だにせず座る男の姿があった。表情は青ざめていたが、生のかがやきは失われてはおらず、神聖さすら感じるほど、純粋で、穢れのないものであった。竜騎士はつぶやいた。
「死んでいるのか」
 盗賊がそっけなく返した。
「気絶してるだけだろ」
 空で交わされているやりとりなど何も知らない無邪気な男は、こんこんと眠り続けていた。欲望のままむさぼるのではなく、たゆたう湖面の水のような、穏やかな眠りであった。そのやすらかな寝顔は、あどけない幼子に似ていた。竜騎士は、そっと、幸運の女神のいとし子の名を呼んだ。
「マリナス……」
 やわらかな風に誘われるように、青々としたひげがゆれていた。




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