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少女の微笑は残酷な花





 身を滑るようになぞる風も心地よい、ある午後のこと、ひとりの男が気だるそうに体を揺らしながら、ぶらぶらと小道を歩いていた。足もとに続く道は少しも舗装されておらず、土はぬかるみ、地肌のそこかしこに岩が飛び出している有様だったが、男の歩調は、なお猫のように軽やかであった。
 しばらく行くと、男はだしぬけに歩みを止めた。
「よ、こんなところで何やってるんだい、死神」
 すぐ横に立つ木を見上げて気安く声をかける。その先には、木の葉の間に隠れるように枝に腰掛け、短剣の刃を研いでいるもうひとりの男の姿があった。
 声をかけられたほうの男は手を休めることはなく、うろんな視線を相手に向けることすらしなかった。
「おい、聞こえてんのか? おい、おおい! ……相変わらずだねえ、まったく」
 ラガルトは肩をすくめた。
 そのとき、草が不自然にざわめいた。ラガルトの体が、長年培った経験に従い、条件的に強張る。
 しかし、丈の長い草をわけて飛び出した人物を見ると、その緊張はすぐに解かれた。
「ニノじゃねえか」
 盗賊の鋭い目が、少女の小さな背を捕らえた。それまで、木下のすべてに無関心な風だったジャファルは、ここではじめて顔を上げた。
「どこ行くんだ……ありゃあ、輸送隊の馬車か。……どうでもいいが、いきなり後ろに立つなよ、殺しちまうぜ」 
 いつの間にか、ジャファルがラガルトの後ろに立っていた。暗殺者の身のこなしは、葉のこすれる音ひとつ許さなかった。
 ラガルトは笑いながら、とっさに掴んだ短剣から手を離した。
「手癖の悪いのが抜けてなくてね」
 けれど、その軽口はジャファルの耳には届いていないようだった。視線はなおも輸送隊の馬車の中に消えていく少女へと向けられている。盗賊はその様子を見て、在りし日のジャファルのそれとを比べ、心ゆくまでからかいたい欲求にかられたが、命は惜しかったので、ただ口の端をわずかに挙げるにとどめた。
「そんなに心配しなさんなって。マリナスって言ったっけ、輸送隊のおっさん。ヤンに似てるとかなんとがで、ニノが懐いて、親しくなったって話だぜ。まあ、若い俺たちじゃ、ヤンのかわりは無理だからな」
 若い、という言葉に力がこもる。
「ま、あのおっさんもニノを悪いようにはしないだ」
 ラガルトの言葉が最後まで語られることはなかった。馬車から響く荷の崩れる音と、それに続く高い少女の叫びが、それを遮ったのだ。同時に、ニノが馬車から飛び出した。ふたりの男の瞳が驚きに見開かれ、走り去る少女を凝視した。唇を固く結び、衣服はあちらこちらが引き裂かれ、目には涙が浮かんでいた。その痛ましい様子は、ラガルトが声をかけるのをためらったほどであった。
「ニノ、待ってくれい!」
 マリナスの焦ったような声がニノの後を追うように、あたりに響き渡る。
 この状況が示す事実は、ただひとつしかなかった。
 元黒い牙の暗殺者たちは互いに視線を交わした。言葉はいらなかった。そうして、腰に下げた剣の柄に手をふれ、その静かなる歩みを、輸送隊の馬車に向けた。
 
「はい、できた!」
 レベッカはニノの目の前で、手にした服を大きく広げて見せた。それは、ニノが平生身につけている魔道士用の外衣だった。
「どう?」
「レベッカ、すごい! 元通りだよ!」
 そう言うと、レベッカの首根っこに抱きついた。
「えへへ、こういうのは結構得意なんだ」
「ありがとう!」
「でも、どうしたの、こんなにびりびりに破れちゃうなんて。最近、大きな戦いってなかったよね?」
「うん、それがね……」
 ニノは頬を赤らめて話しはじめた。
「この間、輸送隊のお仕事を手伝おうと思って、馬車の中に入ったんだ。そしたら、立てかけてあった槍に躓いて」
「倒しちゃったの?」
「うん、ざざあっって、一列ぜんぶ」
「うわあ」
「そのときに、刃の先で服が破れて……びっくりして、それから、恥ずかしくて、何も考えられなくなって逃げちゃったんだ。マリナスさんに悪いことしちゃった……」
「そっか……」
「でも、そのあと、謝りに行こうと思ったんだけど、マリナスさん、輸送隊のどこにもいないの。レベッカ、何か知ってる?」
 レベッカは顔を曇らせた。
「あのね、実はこの前、輸送隊が敵に襲われたらしくて」
「えっ?」
「ニノがいたちょっとあとぐらいじゃないかな」
「ねえ、マリナスさんは? 大丈夫だったの?」
「あ、それは大丈夫。運がよかったみたいで、かすり傷ひとつ負ってないみたい」
「そうなんだ……よかったあ……」
「でも、また襲われると危ないから、しばらく、シスター達の所に隠れてるって」
 ニノはそれを聞くと、心配そうな表情を浮かべた。
「マリナスさん、早く元気になるといいね……」
「そうだね」
 マリナスがシスターたちに囲まれてとろけんばかりに顔を緩ませていたことは口にせず、レベッカはうなずいた。それから、ふと、思い立ったようにニノに笑いかけた。
「そうだ、後で、一緒にお見舞いにいこっか?」
「うん!」
 ニノは顔を輝かせて、レベッカにふたたび飛びついた。
「ありがとう、レベッカ! 大好きだよ!」
「やだなあ、ニノったら。大げさね」
 少女たちはさんさんと差しこむ陽光の下、くすくすと無邪気に笑いあった。
 それからしばらくして、ふたりがマリナスの元を訪れた際に、転倒したマリナスの手がうっかりレベッカの胸に触れ、さらにそれをたまたま通りがかったダーツが目撃することになろうなど、花のように笑うふたりの少女は、少しも知らなかった。




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