空の女と地の男
天を仰ぐと、そこにはいつも空が広がっていた。
マリナスがそれに気付いたのは、ごく最近のことであった。それまでは、空を見るなどという、感傷的な行為を自分がすることになろうとは、考えもしなかった。それが変わったのは、ある人物と出会ってからである。
あるとき、マリナスが戸外で新たに購入した武器の数を確認していると、突然、空から轟音とともに黒い突風が吹きつけた。
マリナスは風の勢いによろめき、尻餅をついた。
「あいたたた……」
強く打った腰をさすりながら、目を開ける。マリナスは目を見張った。間をおかず、額にじんわりと嫌な汗が伝わるのを感じた。目の前に突きつけられた光景が、現実のものとはにわかに信じがたかった。
地面に手槍が突き刺さっている。放たれたばかりの手槍は勢いをもてあますかのように、マリナスの眼前で、びよんびよんと音を鳴らしながら、左右に揺れ続けていた。
「おい、マリナス!」
突然雷の落ちたように声をかけられて、脂汗まみれの青い顔を上げると、そこには、巨大な飛竜と、その手綱を造作もなく引く女の姿があった。燃えるように輝く瞳には、激しい力をみなぎらせている。
「聞こえてんのかい!」
「は、はい、ヴァイダさま!」
マリナスは必死に声を絞り出した。
「あの」
「何だい?」
「次からは手槍を投げる前に、声をかけていただきたく……ひっ!」
言い終える前に、次の手槍がマリナスのほおをかすめた。
「さっきから何度も呼んでんのに、お前が気付かないから悪いんだよ!」
「も、申し訳ございません……はい」
マリナスが空を見上げるようになったのは、身の危険を避けようとする本能からであった。
だしぬけにヴァイダがたずねた。
「焼き菓子は手に入ったかい?」
「いえ、それが、まだ届いておりませんで……」
ヴァイダの言う菓子というのは、マリナスの経営する商店、マリナス堂自慢の一品である。蜂蜜で煮つめたりんごを生地の中に詰めて、こんがりと焼いた菓子だ。せんにマリナスにもらって以来、ヴァイダの好物でもあった。
「ふん」
ヴァイダは不満そうに鼻を鳴らした。
「別になけりゃあ、いいんだけどね。あれば食ってやってもいいってだけさ……何笑ってんだい?」
「いえいえ、笑ってなどおりませんぞ」
そうは言うものの、甘い菓子を好むというヴァイダのらしからぬ一面に、自然と笑みがこぼれるのは確かだった。
「おかしなやつだね。じゃあ、あたしは行くよ」
飛竜が泣くような音を立てて、翼を大きくはためかせた。
「ヴァイダさま」
羽音にかきけされぬよう、マリナスが声を張り上げた。
「何だい? もう行くって言ってるだろ」
「ひとつ教えてくださらんか」
「ものによるね」
「空から見ると、地上はどのように見えるのですかな?」
ヴァイダはいぶかしげにたずねた。
「どんな風に見えるかって? そんなもん聞いてどうすんだい?」
ヴァイダは鋭くマリナスを一瞥した。マリナスは、しまったという表情で、
「い、いえ、ただのつまらぬ好奇心でして」
「ふん」
ヴァイダはしかめ面をしながらも、あたりをぐるりと見まわした。
「空」
「……ヴァイダさま?」
「お前が聞きたいって言ったんだろう? 黙って聞きな!」
「は、はい!」
ヴァイダは淡々と続ける。
「土」
「ほう」
「雲」
「ふむ」
「木」
「ほほう、つまり、ここから見える景色とあまり変わりがないようですな」
それを聞くと、ヴァイダはマリナスを鋭く睨みつけた。
「何だい、フハハ、人がゴミのようだ!……とでも言えばいいのかい!」
「ひえっ」
放たれた手槍を、持ち前の運のよさで避ける。
「竜にでも乗ってみなけりゃ、わかりっこないだろ、何が見えるかなんて」
「それは、そうですな」
「……何こっちじっと見てんだい? 乗せないよ」
残念そうなだれるマリナスに、ヴァイダは上から叩きつけるように言った。
「適材適所って言葉、知ってるだろ。あたしは空を飛ぶのが性に合ってるし、お前は地べたを歩くのが似合ってるんだよ」
「それは、まあ、そうですが」
「輸送隊が空にあったら、武器の補充はどうすんだい。戦いになりゃあしないよ」
なおも腑に落ちない様子ながら、マリナスが低く呟いた。
「そうですな、竜に乗りっぱなしで、ヴァイダさまのようなガニ股になっても困りますしなあ」
「……何か、言ったかい?」
「い、いえ、わしは何も……ひょええっ!」
マリナスは、この直後、激しい手槍の雨を受けることとなった。
その晩、マリナスは夢を見た。夢の中で、竜に背にのって、大空を駆けていた。すっかり少なくなった髪をやさしくなでる風の、なんと心地よいことか。
はじめは、口笛など吹きながら快調に飛ばしていたが、やがて、飛竜が言うことを聞かなくなった。押しても引いても動かない。しばらくすると、マリナスの体が、竜の背からころりと転がり落ちた。マリナスはこれでも自分も終わりか、と、ぼんやりと考えた。不思議なことに、心はひどく落ち着いていた。さわやかな初夏を思わせる気候が、そう思わせたのかもしれない。それに、マリナスは諦
めを知らぬほど若くもなかった。
しかし、落ちた先には、輸送隊の馬車があった。主が戻るのを待っていたかのようだった。
マリナスは、今度は、馬車を走らせはじめた。手綱は手になじみ、胸にはえもいわれぬ温かさがにじむように広がっていった。ここで、マリナスはやっと、なるほどヴァイダの言葉はこういう意味であったのかと、ひとり得心して、馬車に揺られつつ、若草にけぶる草原を、蹄が大地を叩く音も軽やかに、ゆっくりと横切っていった。
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