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讃課の鐘





 その朝も修道院の西にそびえたつ荘厳な大聖堂の中には、青白い人形のような面持ちの修道僧たちの口からいずる聖女への祈りが、ときには重々しい調子で、ときには軽やかに歌うように響いていた。祈りの声は言葉でありながら沈黙に似ていた。
 季節は冬。
 群れの息は白く、手は赤く、目はひめやかな恍惚に燃えている。

 いまだ夜は明けず、聖堂の窓からはわずかの光もささない。燭台の上で赤々とゆらめく蝋燭の炎は、おぼろげに神の僕のひとりの顔を照らす。初老のその男は、穏やかな表情で、しかし瞳に少しの隙をも浮かべず、壇上で眼下をゆっくりと見回した。聖堂は円形で、中央が低く、外側にゆくにつれてその高さを増すつくりになっていた。男は背に石の壁の冷たさを感じながら、その最も高い位置に立ってた。
 いくつもの顔が、そこに秘められた同じ数の思惑が、観察者の視線をかすめていくなか、ふいに段の中ほどで視線が自然と止まった。その先には、ひとりの少年の姿があった。

 少年は青い髪を揺らし、他がそうするように、まったく非もない忠実なそぶりで祈りを唱えていた。ただ、その瞳に見え隠れするかすかな影は、同年代の見習い修道士の間にあって、ここにあるすべての人間の間にあってさえ、異質であった。
 少年は男に教えをこうた。
 男は少年に応えた。
 少年は男を心から慕っているように見えたが、時おり、それらはすべて虚構ではないかと思わせる危うさがあった。どうしてか、目が離せなかった。

 自分に向けられた視線の強さに気付いたのか、少年が男のほうをちらと見遣った。
 そして少女が恋人にそうするように、やわらかな微笑みをおくった。男は知らず口が開きそうな思いで、唖然とそれを見た。教会生活において、多弁と笑いとは忌むべきものである。どう返すべきかとしばし対応に窮し、目を伏せた。やがてとるべき態度を決し顔を上げると、すでに視界に少年の姿はなかった。同時に、それまで表面的には整然とした秩序に支配されていた聖堂内の空気が大きくゆらいだ。何事かと人と人との間に生じたわずかな視界に目を凝らすと、ざわめきの渦の目で、少年が顔に色なく体に力なく横たわっていた。男は足音を殺しつつも少年に駆け寄り、その名を小さく呼んだ。
「サウル!」

 救護所の質素な寝台に、サウルは痩せた小さな体を横たえていた。意識はなく、目は固く閉じられていた。ふたりのほか、室内に人の気配はない。ヨーデルは燭台に火をともし、それを手近な台に置くと、備え付けの椅子に緩慢とした動作で腰掛た。そして、親が子を案じるように弟子を眺めた。過度の疲労と睡眠不足が昏倒の原因だった。しかし、その原因がさらに遡ってどのような事実まで繋がるかまでは、推測の域を出なかった。
 サウルが身を捩じらせ、苦悶に顔をゆがめる。体を覆っていた薄布が音もなく床に落ちた。細い指が堪えきれないかのように胸をかきむしる。僧服が捲れ、白い肌が露になった。ヨーデルは汗をぬぐうおうと手にした布を強く握り、息を呑んだ。肌には無数の傷がはしり、ところどころ赤い染みが浮き上がっていた。その多くはまだ真新しく、昨日今日つけられたものに相違なかった。ヨーデルは眉にしわ寄せ、思わず呟いた。
「これは……」

「何でも……ありません……」
 か細い声が薄暗がりに広がった。ヨーデルは驚いて声の主を見た。
「サウル、まだ起き上がっては」
 サウルは億劫そうに半身をおこし、傷を隠すように服を整えた。
「お気遣いありがとうございます。この傷は、昨日、うっかり茨の茂みに入ってしまったときにつけてしまったんです。……それだけです」
 笑みをつくろうと、唇を引きつらせた。しかし、サウルは人を騙すにはまだ若すぎ、ヨーデルは人に騙されるにはすでに老いすぎていた。
「誰がこんなことを?」
 声音はごく静かであったが、強い響きをもっていた。
「誰も」
「サウル」
 頑なな態度に、ヨーデルは一息ついた。
「償うべき罪はお前にあるのではありません。お前は」
「いいえ」
 明確な否定が、ヨーデルの言葉をぴしゃりと遮った。サウルは軽く肩をすくめた。
「……ヨーデル様には嘘はつけませんね。でも、これは僕の罪です。偽りではなく。だって、僕のほうから誘ったんですから」
 ヨーデルは絶句した。
 ただそれはほんの一瞬のことで、すぐに己の理性と判断とを取り戻し、ひとつの結論に辿り着いた。
「庇っているのですか、相手を」
 サウルはこれを聞くと、くすくすと笑った。
「違います。だから、僕が誘ったんですよ。こんな風に」
 少年の細い腕が、ヨーデルの首筋にまわった。
「サウル、やめなさい」
 制するのも聞かず、若い体はさらに距離を縮める。
「抱いてください」
 耳元に熱い息が吹きかかる。
「寒いんです」
 ヨーデルは体をこわばらせた。
「それはできません」
 サウルは誘うように目を細めた。
「なぜですか。教会法で禁ぜられているからですか。それとも、ヨーデル様の正しき道徳心に反しますか」
「わたしは」
 真っ直ぐのびた視線がヨーデルをとらえた。その幼さの残る目は、大人の逃げを許さなかった。

 ほんの少しの沈黙をもって、他に要因を見つけるでなく、自分自身の真意を丁寧に探った。サウルの背に、ためらいがちに腕を伸ばす。
「婚姻を禁じられている聖職者の立場で言うのもおかしいことかもしれませんが、わたしはお前を、まるで自分の子供のように思っているのです。そしてそれは、肉を介しての愛ではありません」
「……では、僕を愛してくれているというのですか」
「ええ、もちろんです」
「それを証明できますか」
 サウルはなおも目を逸らさずに続けた。
「はっきりとしたかたちで、その言葉が真実であると証明できますか」
 ヨーデルは応えた。
「……先ほどからお前はわたしに質問してばかりですね。ではこちらから訊ねます。真実とは必ず目に見なくてはならないものなのですか、サウル」
 そう問いかけると、サウルの挑むような瞳の光がふっと変質した。

「……わりません」
 少年時代特有の高い声に、小さな不安の波紋が広がっていくようだった。
「口先では神の愛を説きながらも、僕にはそれがわからないのです。何が真実か実感できないのです。……こういう風にしか、人の愛し方を知らないのです。高潔で名高いヨーデル様におかれては、さぞ軽蔑なされたことでしょう」
「サウル」
「しかし、言葉や態度だけでは、それが愛情からきたものなのか、それともただ打算からきた表面上だけのものにすぎないのかわかりません。もしそれを無邪気に信じてすがって、すべてが嘘だと知ってしまったら。それが恐いのです。とても恐いのです」
 僧服をつかむ指が震えた。
「でも、体を重ねあっている間ならば、相手の目には自分しか入っていません。相手の前には自分しかいません。向けられた一瞬の恍惚の表情、触れ合う肌の熱さは真実なのですから。教えてください、ヨーデル様。人はどうやって、人を愛するのですか。どうして皆、偽りを恐れずに人を愛することができるのですか」
 ここまで一気にまくし立てると、サウルは急に熱が冷めたように押し黙った。空気も凍える救護所に、重い沈黙がたれこめた。

 その沈黙を破ったのはヨーデルの声だった。
「サウル」
 幾多のしわを刻んだ指が、深く青い髪を優しく撫でた。
「サウル」
 赤子をあやすように、もう一度その名を呼ぶ。ヨーデルはサウルがいかなる境遇に生まれたかを知っていた。そして大人たちが幼いひとりの少年に対し、どのような感情をもって接していたのかも。その過去とそれがもたらした結果はあまりに残酷であった。サウルにとって本当に必要なもの、それは何か。 冷徹に人の心を分析するまなざしの奥で、何を求めていたのか。

「真実は求める先にあるのではなく、求めようと人がもがきながら、苦しみながら歩む道のあとに、何気なく落ちているのです」
 春の日差しのように、暖かく穏やかにささやく。
「わたしに、愛の何たるかを教えることはできません。わたしもまた、それを知らないのですから。だから」
 腕にあらんかぎりの力をこめた。
「ともに探しましょう」

 修道院に讃課を告げる鐘が響く。子供が声を上げて泣く音を消してしまうほどに大きく、力強く。
 夜明けが、すぐそこまで近づいていた。




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