表紙



外套の下





 軍の宿営地には、何時も人の気配が絶えることなく、一部隊を率いる将となれば、なおさら背後に付きまとう上官を護衛せんとする兵士の目から、いかなる時も逃れることは出来ない。それは、戦場において兵をまとめるものとしての責務であり、拒否することは許されなかった。
 たとえ名だたる歴戦の勇士多き部隊も、将なくしては烏合の衆になりえ、また、戦に関しては素人の寄せ集めである農民部隊でも、将のもとでは多大なる戦力になりえた。すなわち、まず第一に将に必要なのは、なによりも生き抜くこと、敵の刃から己の身を守ることであった。
 リーフもまた、それを理解していたし、異論はなかったが、彼が苛立っていたのは、背後に常時あるはずの、見慣れた騎士の姿がないためだった。

「フィンはどうした」
 簡素な、しかししっかりとしたつくりの天幕のなかで、不機嫌そうな声が少しの距離をおいて控えている年若い騎士に問う。
 騎士はわずかに頬を紅潮させて答えた。
「は、フィン殿は宿営地の見回りにでておられます」
「見回り?フィンがか?」
 訝しげな調子に、騎士は改めて姿勢を正した。
「はい、自らご志願されて」
 リーフは小さくそうか、とだけ呟いて顎に指を当てた。宿営地の見回りなどの雑務は、見習い騎士などの領分であって、本来ならば、フィンにあてがわれる類の職務ではない。しばらく腕を組み考え込んだあと、三度騎士に訊ねた。
「今どこにいるか知っているか」
 騎士はかぶりを振った。
「いいえ。存じませぬ」
「そうか、では探してくる」
「お待ちください。わたくしも」
「いらん」
「そうは参りません」
「いらんと言っている」
「しかし」
「命令だ」
「しかし!」
 このようなやりとりがいくらか続いたあと、リーフはしぶしぶながら騎士が馳せるのを許した。もっとも、天幕を出てすぐのち騎士は主君の姿を見失い、冷たい汗を額と胸ににかくこととなった。

 夜と昼とをわかつこの時間、家々の明かりがひとつ、またひとつと、小さな星のように揺らめきはじめる。フィンはひとり、宿営地のはずれにある小高い丘の上から、眼下に広がる街の様子を眺めていた。一瞬声をかけるのをためらったのは、表情に浮かぶ悲愴な色をみてとったためであった。唾を一度飲み、乾いたのどを潤した。
「フィン」
 何度口にしたか知れぬ名を呼ぶ声が、草原に低く響く。フィンは厳しい面持ちで振り向き、声の主が己の主君であると認めるやいなや、ふっと瞳の光を和らげた。
「リーフ様、なぜこのようなところに」
「お前を探しに来たんだ」
「私を?」
「お前を」
 二つの視線が絡み合う。
「お前は精神的にまいっていると、わざわざ仕事を増やしたがる癖があるからな」
 笑みに自嘲が混じった。そして、フィンは決してリーフの前では弱みを見せることはないのだ。
「そんなことは」
「ある」
 それが主たるリーフに対する臣下としてのから気遣いからきたものであるとはわかりながら、子供のように苛立つ思いを押さえきれないこともままあった。しかし、その日のリーフの心は、晴れの日の湖面のようにひどく穏やかなものだった。
「顔を見ればわかる。何年ともに過ごしてきたと思う」
 そう言いながら、リーフは肩に軽く羽織っていた外套をはずすと、乱暴にフィンの頭にかぶせた。フィンは驚きの声とともに、外套に手を伸ばした。
「これは?リーフ様がお風邪を召されます」
「今日は暖かい。風邪などひくものか」
「黙って被っていろ。主君の命が聞けぬか」
「リーフ様」
「言葉だけが人を知る手段ではない」
 表情は隠れていた。だが、心の動きまでは隠せなかった。
「何も言わなくていい。…言うな」
 フィンは力が抜けたように、若草の上に座り込んだ。リーフもまた、フィンと背をあわせ座った。何をするでもなくただ座る。血が巡る心地よいぬくもりを感じながら、空を見上げた。やがてまぶたを閉じ、相手の悲しみと自分の喜びとに静かに思いを馳せ、苦く笑った。




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