表紙



後朝





 日はいまだ高く昇らず、朝の厳しくも爽やかな空気が、白く瑞々しいほおをきる。
 セシリアはこの時間が好きだった。陰謀と策略の糸に張り巡らされた王宮内にあって、この空気のもたらす神聖さは格別の意味をもっていた。心地よさに自然とはずむ心を制し、足早に王宮内の書庫へと向かう。手には戦術を論じた厚い古書をしっかりと握っていた。
 足どりも軽く石の回廊を渡っていたセシリアは、うつむき歩くひとりの少年の姿を眼前にみとめ、歩みをとめた。
「パーシバルさま」
 ふいに名を呼ばれた少年は、驚いたように顔をあげた。セシリアは微笑み、ゆっくりとパーシバルに近づくと、しなやかな動作で宮廷風に一礼した。
「おはようございます。よい朝ですね」
 相手はややあって、
「……ああ」
とかすかに口を動かし、ふいと顔をそむけた。
 セシリアは眉をひそめた。
「私、なにか失礼を」
「いや、ちがうんだ。……すまない」
 パーシバルは首をふり、目をふせた。硬質な金の髪がわずかにゆれる。その仕草を見て、セシリアは、あ、と小さな声をあげた。
「パーシバルさま、首もとを虫に刺されていらっしゃいますわ」
 言いながら、自分の首でその位置を示す。
 それを聞くと、パーシバルは衝かれたように目をみはり、さっと首を手でおおった。同時に、頬と耳もまた、首もとに刻まれた赤に染まる。一瞬、背の高いパーシバルがうつむく様子を下からセシリアが見あげる格好になったが、恥じらいにわずかにうるんだその瞳の持ち主が、幼い時分より聡明と勇ましさとで名高いパーシバルのものとは、にわか信じがたかった。
 セシリアが驚きに言葉もなく、声もと目をぱちくりしばたたかせていると、
「失礼する」
と蚊の鳴くようなひと声を残して、パーシバルは逃げるように駆け足で去っていった。

 ひとり残されたセシリアは、状況を飲み込めずにぼんやりと立ちすくんでいた。力の抜けた手からするりと本がすべり、重たげな音を立てて床に落ちた。
「いけない」
 すぐさま本を拾おうとしゃがみかけると、セシリアのものではない、別の手が本を軽々と拾いあげた。
「ありがとうございます……ダグラス将軍」
 セシリアは礼を言いかけ、相手が歴戦の勇士たるダグラス将軍であるとわかると、背筋をぴんと伸ばし敬礼した。
「いや、礼を言われるほどのことでもあるまい」
 ダグラスは平生と変わらぬ厳しい表情のまま、拾った本のすりきれた表紙に視線を落した。しばしの沈黙ののち、緊張した面持ちのセシリアをまっすぐ見すえた。
「励めよ」
「……はい」
 セシリアは唇に浮かぶ喜びと誇らしさを隠しながら、将軍に問いかけた。
「あの、ダグラス将軍、お話したいことがあるのですが。少しよろしいでしょうか」
「ああ、かまわぬが」
 セシリアは言葉の端々に困惑をにじませなから話しはじめた。
「つい先ほどお会いしたとき、パーシバルさまのご様子が……おかしかったのです」
 ダグラスは太い眉尻をあげた。
「どんな風に?」
「はい、私がパーシバルさまの首もとある虫刺されについて指摘したところ、その、逃げるように行ってしまわれて。……もしや、パーシバルさまは、なにか虫刺されに深い精神的な傷をおもちなのでしょうか。そうでしたら、たいへん悪いことを申し上げてしまいました」
 ダグラスはそれを聞くと、ばつの悪そうな顔をした。
「しまったな……」
「え?」
「いや、こちらの話だ。案ずることはない、セシリア。パーシバルは昨夜わしが少々きつく……たしなめたのだ。ああ……その、騎士としてのたしなみについてな」
「たしなみ……ですか」
「そうだ。それが今朝まで引きずっておるのだろう。セシリアに非はない」
「それなら良いのですが……」
 セシリアは今ひとつ腑に落ちぬ思いを抱きつつ、頬に手をあて、あさっての方向をむきながら話すダグラスの横顔をいぶかしげに見つめていた。

 そのころパーシバルは、胸と身体にくすぶる甘い快楽を取り払おうと、馬の手綱をとりがむしゃらにあてもなく野を駆け、しかし、ふとした瞬間、無意識に首もとに触れる自分の手に気づくと、顔を赤らめ、今度はさらに躍起になって槍を振りまわしていた。




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