表紙



闇の中





 初陣のときのことを覚えているかと問われ、ハーヴェイはいいや、とあくび混じりに答えた。
「お前らしいな」
 そう口にするヘルムートの声には、わずかな笑みが含まれていたが、その表情を窺い知ることはできなかった。二つの影が身をおくのは、深い闇の中である。ただ互いの息遣いと肌の熱だけが、塗りこめられた黒に紛れぬ唯一のものであった。ヘルムートは灯のある場所で肌を合わせるのを望まない。己の弱さを光のもとに暴くことには、耐えられなかったのだ。
「だが俺は、無様に過去にしがみつくことを止められぬ」
 ヘルムートは独り言のように、ぽつりぽつりと話しはじめた。この若い士官は決して口数の多い性質ではなかったが、闇のもたらす重い沈黙はときに、人をひどく多弁にする。
「士官学校を出たばかりの頃だった。身に過ぎた理想が俺を盲目にしていた。傲慢な少年だった。己に出来ぬことはないと思っていた。俺は幾つかの隊に混じって小隊を率いて、ある島に乗りこんだ。村ひとつしかない小さな島だ、制圧するのはたやすいことだった。演習で何度も経験したことを繰り返せばそれでよかった。
「だが、そこからが本当の初陣だったのかも知れん。
「戦の興奮を持て余した兵たちが略奪をはじめた。家々に火を放つ、娘を犯す、金品を懐いっぱいにかすめとる。
「犯すな、殺すな、盗むなと声が枯れるまで叫んだ。雇われ兵ならばまだしも、一国の正規兵相手にだぞ? 海賊のほうが大義名分のない分、よほどましかも知れぬ。
「みじめだった。夜は敷き布を顔に押しつけて泣いた。己の無力さに涙が止まらなかった。戦場で泣いたのは、それが最初で最後だ。
「次の日、軍規違反のかどにより、部下の数人を処刑した。
「力が欲しかった。
「だが、今になって思えば、俺が欲したのは、理想を実現するための力だったのだろうか。単に、決してかなわぬ理想を夢見ていられるだけの、揺篭が欲しかっただけではないのだろうか」
 言い終えるやいなや、それまで黙って聞いていたハーヴェイが闇を探り、己の唇でヘルムートのそれを塞いだ。慰めの言葉や理性的な答えなど求めてはいなかったので、ヘルムートは舌を絡ませ、頬を引き寄せ、それに応えた。




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