表紙



薔薇よりも薔薇の如く





 執務室から溢れるむせかえるような薔薇の香りに耐えつつ、ミドルポート艦隊の艦長シグルドは、彼の主たる領主ラインバッハ二世の前に膝を折り、せんの航海についての報告を行っていた。
「……以上が今回の成果です」
「ふむ、ご苦労。残りはお前の取り分としておけ」
「有り難き幸せ」
「ああ、そうだ。いい酒が手に入ったのだ。どうだ、一杯やらんか」
 一礼して立ち去ろうとするシグルドを、領主は引き止めた。
「しかし、まだ仕事が残って……」
「若いくせに老人のようなことを申すな。それとも、わしの頼みを聞けぬと?」
 シグルドはしばし迷っていたが、やがて諦めたようにグラスを受け取った。
「では、一杯だけ」
 領主自らの手によってガラスに満たされた果実酒は、血のように赤かった。そしてラインバッハの言うとおり、たしかに質のよいもので、流れるような清涼感がシグルドの喉を快く潤した。
「どうだ、なかなかの出来だろう」 
「ええ、たいへん美味しゅうございまし……?!」
 ガラスの割れる高い音が、執務室に響き渡った。
 その瞬間、シグルドはよろめき、力なく床に跪いた。身体が熱い。ひどくめまいがする。
「ラインバッハ様、これは、一体……」
 突然、己の身に降りかかった事態に混乱するシグルドを見て、ラインバッハは残酷な笑みを浮かべた。
「なるほど、よく効く薬だ。シグルド、お前は有能ではあるが、素直すぎるのが少々難点だな」
「く……すり……?」
「いつも同じではつまらぬからな、今日は趣向を凝らしてみたというわけだ」
 言いながら、ラインバッハはシグルドを見下ろし、その顎を強引に上向かせた。
「いい眺めではないか……なあ、シグルド?」
 シグルドは身を蝕む快楽の予感に耐えつつ、それでも己の矜持を保とうと、主を強く睨みつける。
「……このような、お戯れは……」 
「夜のほうがいいというわけかな?」
「そ、それは……」
 領主と過ごした幾たびの夜を思い出し、シグルドは顔を逸らして口ごもる。
「寝台の上でも執務室の床でも、昼でも夜でも、やることは変わらぬではないか」
 ラインバッハの指先がねっとりと絡みつくように、シグルドの首元をまさぐった。
「ふふ、口では嫌だ嫌だと言いながら、身体のほうは正直なようだな?」
 攻め立てる手を止めることなく、若き艦長の耳元に優しくささやきかける。
「それとも、デイジーちゃんのほうがお好みかね? この間は随分、可愛がってもらったようだが」
 青年は顔色を失った。
「……それだけは、どうか……ご容赦を……!」
「ほう、嫌だと申すのか?」
 ラインバッハは目を細めた。
「嫌ならば、ほら、口ではっきりと言わぬか。デイジーちゃんに何をされるのが嫌なのかね? ん?」
「くっ……」
 交わされる言葉の合間にも、男の指先は丹念に肌をまさぐり続ける。
「どうした、主よりも先に果てようなどとは、はなしたないぞ、シグルド」
 シグルドの端正な顔が屈辱と怒りとに歪んでいくのを、そしてその奥に潜む情欲が密やかに燃えたっていく様を、ミドルポートの領主は楽しげに眺めていた。
「お楽しみはこれからだ、のう?」

 これを記したのはミシキーと呼ばれる人物であると伝えられ、『薔薇の剣士』の作者として高名なミッキーと同一人物であるとみる学説も有力である。この作品は主に女性たちの間で密かに読みつがれていたらしく、多くは親の目に触れないよう隠され、あるいは夫に見つからないよう解体された上で保存されたと思われる。そのため残念ながら、現在はわずかな断片を残すばかりで、完全な形で残されているものはない。作中に登場するラインバッハ二世とその部下シグルドという人物は実在したようだが、この物語が事実であるか否か、答えは遠い歴史の彼方に沈み、真実を知るものは誰もない。




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