表紙



地上に降りた最後の天使





 降り注ぐ日差しも晴れやかな昼どきのことであった。昼食の支度を手伝いながら、コルセリアはキリルにたずねた。
「それで、キリルはお母さまのこと、少しも覚えていないの?」
 言いながら、コルセリアは慣れた手つきで、金属製の皿を次々と袋から取り出しては、キリルに手渡した。
「うん、物心ついたときにはもう、父とヨーンと三人で暮らしていたからね。母の遺品と呼べるようなものも家になかったし、顔どころか、名前も知らないんだ」
「そう……」
「でも、僕にはセネカやアンダルクがいたから。淋しいと思ったことはないよ」
 すぐ側で大鍋を掻き混ぜていたセネカが、満面の笑みをたたえて振り返った。
「もう、キリルさまったら……褒めても何にも出ませんよ!」
「セネカ、落ち着け、匙を振り回すな! こっちに汁が飛ぶ!」
 火の加減を見ながら、アンダルクが悲痛な叫びを上げた。
「だけど」
 キリルは訝しげに続ける。
「だけど……どうしました?」
「赤ん坊って、コウノトリが運んでくるんだよね? どうしてお母さんとお父さんが必要なの?」
 場に鋭い緊張が走った。
「!!!!!」
「????!!!!」
「?!」
 少年は不思議そうに首をかしげた。
「……あれ、僕、何か変なこと言ったかな?」
「いいえ、いいえ、キリル様。あなたは何も悪くないんです」
 セネカが慈愛をこめて優しく微笑み、アンダルクの腕をそっと取った。
「ねえ、アンダルク。ちょっといいかしら。すみません、キリル様。すぐに戻りますから。コルセリアちゃん、鍋をお願いしていいかしら?」
「あ、はい!」
 キリルは荷の影に消えていく二人の背を見送りながら、目を瞬かせた。
「いきなりどうしたんだろう?」
「さ、さあ……」
 コルセリアは微かに火照った顔をそらしながら、風に乗って低く流れてくる声に耳をすました。
「……世間に出ても恥ずかしくないように……ちゃんとお教えしてって……あれほど……あなたが……自分から言って……」
「待て……私の口から……キリル様に……男女がまぐわう……セネ……や、やめ……」
 澄んだ青い空に、鈍い音が響きわたった。
 大魔法使いシメオンによる、おしべとめしべに関する特別授業が行われたのは、それからさらに数日後のことである。




表紙

inserted by FC2 system