表紙



飢えたる口





 凪いだ海に浮かぶグリシェンデ号の一室、シグルドはいつものように長椅子に身を横たえ、書物の項を繰っていた。そのとき、だしぬけに扉が開かれた。耳に飛びこんでくる喧しい音から、顔を上げずとも相棒が帰還したことを知る。が、いつになく足音が荒れている。思わず目を向けると、シグルドはわずかに眉を動かした。
「どうしたんだ、その傷」
 唇の端にこびりついた血を親指でぐいと拭い、ハーヴェイは素っ気なく言った。
「噛まれた」
 誰に、と続けるほどシグルドは若くもなく、野暮でもなかった。興味もなかったのだろう。そうか、と短く答えると、手元の印字に視線を戻した。
 ハーヴェイは舌打ちひとつして、甘ったるい情事の残り香を振り払うように、寝台の上に勢いよく倒れこんだ。
 かのクールーク人は己の口腔でもって、食いもし、飲みもし、言葉を発することもし、吸いつくのも舐めるのも結構、だが口付けだけは絶対に許さなかった。それを生娘かと笑い飛ばし、無理強いしようとした結果がこの有様である。シグルドには言わなかったが、噛まれた上に腹まで蹴られた。情け容赦という言葉を知らぬ一撃だった。もう少し粘っていれば、切り裂きくらいは見舞ってくれたかもしれない。
 どうやらあの男にとって、唇と唇とを重ねることは特別の意味を持つらしい。が、ハーヴェイにはそれが理解できない。恐らく、ヘルムートの意図するところを聞けば、なるほど、そんなものかと思うのだろう。だが、思うだけだ。行為とは、それ自体のみが意味を持つのであって、そこに加えて更に記号的な何かを付随するという概念が、この若い海賊にはないのであった。それを察しろとあの男は沈黙のうちに望むのだが、所詮、無は決して有にはなりえないのである。己の内にないものを感じとることはできない。ハーヴェイにとっての接吻とは、あるときは親愛の情を示す手段、またあるときは前戯の一種、情炎を煽りたてるために呼吸器を合わせる行為であって、それ以上でもそれ以下でもない。肉体の欲するままに、考えることを放棄して、大人しく快楽に身をゆだねればいいではないか。だというのにヘルムートきたら、情交にすら理性と理論とを求めるのである。
「なあ、シグルド」
「何だ?」
「俺が悪いらしいぜ」
「そうだろうな」
 枕を強かシグルドに投げつける。
 どいつもこいつも、ふざけんな。

 翌日、運が良いのか悪いのか、後部甲板でばったりと出くわした。のんびり釣りでもしようと思ったわけだが、なぜこいつがいるのか。ヘルムートも同じ考えらしく、眉間の皺が一層深くなる。
「……よう」
 何とよく出来た大人の対応であろうか。しかし相手は応えないどころか、ハーヴェイに対して少しの関心すら見せない。二人は不機嫌な態度も露に、黙って海を見つめた、いや睨んだ。これがかつては睦言を交わした仲かと呆れるが、この場を先に去ったほうが負け、という暗黙の了解が自分たちの間に横たわっている気がしていた。そして海賊たるもの、受けた喧嘩は買わねばなるまい。
 群島の空は、その日も快晴だった。陽光を浴びた波がちらちらと眩しく輝き、生々しいほどの潮の臭いが、鼻先をゆっくりとかすめていく。ふいに吹きつけた海風が、銀の髪を静かに揺らした。ハーヴェイは視線を横に向けた。それから隣に立つ男に身を寄せ、その唇を奪った。
 飢えている。
 なぜそう考えたのかはわからない。ただこの飢えたる口を塞ぐのが、息をするように、自然なことのように思われたのだ。
「悪い」
 しまった、殴られるか、切られるか。唇を離してから、海賊は反射的に身を固くした。が、ヘルムートは微かに驚きを交えた眼差しでハーヴェイを見つめるばかりで、下げた腕にも拳にも力はなかった。どうやら殴られる心配はないようだったので、一度、二度、かすめる程度に口付けた。それから三度目に相手の脚の間に自分のそれを捻じこみ、距離をつめ、抉じ開けた唇から吐息を深く吹きこんだ。ヘルムートはそれを受け入れた。
「……くだらぬ」
 やがて我に返ったようになった元士官は、ハーヴェイの胸を軽く押しやると、普段と変わらぬ重々しい歩調のままに、その場を去った。
 軍服の後ろ姿を見送りながら、海賊は頭をかいた。世界は謎に満ちている。昨日はあれで、今日はこれである。
 目下のところ、互いを少しも理解できないことは理解できた。これは小さくも、大きな変化ではなかろうか、甚だ不愉快ではあるが。




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