表紙



遠き鐘





 ヨンが軍師に呼び出されたのは、夜も深まった時分であった。軍主が部屋に姿を見せるやいなや、挨拶もそこそこにエレノアは口を開いた。
「あんたには、決定的に足りないものがある」
 少年は驚きも怒りもしなかった。彼女は不躾とも言えるほど、あけすけな物言いを好むのだ。たとえ軍主相手でも、それは変わらなかった。わずかに間をおいてから、経験です、とヨンは答えた。軍師は手元のグラスを弄び、重く続けた。
「その通り。特に指揮官としての経験だ。あんたも感じていたらしいね。しかし演習をいくら重ねても、知識を詰め込んでも、こればっかりは簡単に埋まるものではない。わかるだろう?」
 若き軍主は素直に頷いた。
「基礎は教えよう。赤月にも水軍はあった。もっとも、あの国で戦さと言えば、主に国境付近だったからね。あたしも海戦での指揮経験が豊富とは言いがたい。一人で伝えるには、限りがある」
 ここで初めて、ヨンは彼女の言わんとすることを理解した。エレノアは目を細めた。
「あんたのその察しの良さは嫌いじゃないね。そう、幸いにも、この船には優れた教師たちがいる」

 あくる日から、軍主の「教育」が始まった。彼が教えを乞うのは、海賊キカ、オベル国王リノ・エン・クルデスら、幾多の戦いを生き抜いてきた指導者たちである。彼らの物言いは率直で飾り気のないものであったが、経験から掬いだした言葉のひとつひとつには、圧倒的な力があった。軍主は彼らの語る言葉の一滴まで、乾いた土が水を貪るが如く、その若い身体と心とに吸収していった。
「失礼する」
 その午後、規則正しい軍靴の音と共に室内に姿を現したのは、クールークの元士官であった。今回の教師は彼である。物腰は丁重であるものの、どこか人を拒絶するような雰囲気は、投降以来変わることはなかった。アグネスなどは、敵将たる人物がこのような任を受けるとは思えないと口を尖らせていたものだが、彼女の師は余裕の表情を崩さず、まあ、見てご覧、とグラスを傾けるばかりであった。そしてエレノアの予想通り、ヘルムートはあっさりと承諾したのである。
 青年は卓の上に広げられた海図と、そこに置かれた船の模型の配置をじっと眺め下ろした。
「イルヤ南沖の海戦か」
 そう言う唇に、自嘲の笑みが浮かんだ。
「貴殿の軍師殿は、中々粋な計らいをする。この艦隊を指揮していたのは、私だ。海戦というよりは、小競り合いに近かったがな」
 赤みを帯びた眼差しが一瞬にして、かつての戦場へと巡り帰るのを少年は見た。戦いの規模、船、陣形、敵味方の戦闘員数、使われた紋章砲の数と種類、物資の供給路、戦死者数、被害額、天候、想定外の問題と対応方法、その他諸々、銀髪のクールーク人は白い指先で、ことり、ことりと模型を動かしながら、あくまで淡々と、事実をのみ語った。詳しい説明を求められれば、用意された小型の石版でもって図を描き、あるいは具体的な数字を並べて、極めて丁寧に伝えた。あえて主観を殺している風なのは、元来の性格以上に、彼の立場がそうさせるのだろう。
 講義も終わりに近づくと、ヨンは自分と同じ年のころ、あなたはどのような指導を受けたのかと、ヘルムートに問いかけた。
 彼は唇に手を当ててから、慎重に言葉を選んだ。
「指導とは性質が異なるが……私が貴殿ほどの年のころには、まず、手本となる人物を決めた。そうして、ある状況下において、彼だったらどのような判断を下すのか、想像を巡らせるのだ。それから徐々に、自分の考えを固めていく」
 ならば、あなたの手本となったのは誰なのか。少年に他意はなかった。それは、何気なく発せられた問いだった。
「私は……」
 言いかけて、将校は口を閉ざした。小さな船の模型を、その陣形を凝視する。赤い瞳が揺らいだ。己の中に誰かの影を追う。遠く離れていた友に再び見えたような、あるいは亡霊に出会ったような、少しの悲しみと、少しの喜びを含んだ、奇妙な表情をしていた。
 それを見る少年の面を、ほんのわずか、戸惑いのようなものが過ぎていった。出会いのときからずっと、ヘルムートの身と心は今も処刑場に近くあるものだと思っていた。だが、彼は死者ではない。生きている人間だ。迷いもすれば、立ち止まりもする。
 そのとき、夕餉を知らせる鐘が鳴った。
 ヘルムートは顔を上げると、いつものように慇懃な態度を取り戻して言った。
「時間だ。今日はここまでにしよう」
「最後に、教えてください」
 立ち去ろうとするその背中に、ヨンは静かな声を投げかけた。問わずにはいられなかった、自分にもかつて、その後を追い続けた人がいたから。
「その人を尊敬していた?」
「偉大な人だった」
 ヘルムートは振り返らず言った。
「だが、それゆえに孤独だった。君と似ているかも知れぬな」
 少年は扉の向こうに消えゆく後ろ姿を、無言のままに見つめていた。軍靴の足音すらかき消すほどに、鐘がけたたましく鳴り続けていた。




表紙

inserted by FC2 system