表紙



海青





 はじめ、動物か何かが寝ているのだと思ったのだ。雪の気配すら感じさせる冬の夜、寒風吹きすさぶマンションの扉の前で、身体を丸めて眠る人間がいるはずもない。しかしそれは確かに、すうすうと安らかな寝息をたてていた。
 隣に住むのは、確か、大学生だったと記憶している。顔は見えない。だが、足元に眠るのは学生服の少年であることはわかる。高校生だろうか。
 ヘルムートはそこまで考えて、思考を停止した。大学生であろうが高校生であろうがどうでもいいことだ。彼はここで寝たいからそうしているのだろう。己の手に余るような面倒事には関わらぬこと、それは都会で生き抜くための術である。今日も忙しかった。年度末を控えたこの時期、終電前に帰ることができたのは奇跡であった。早く風呂に入って冷えた身体を温め、軽く一杯やって、泥のように眠りたい。だが、ヘルムートは部屋に踏み込みかけた足を止め、一度深くため息をつくと、その黒い塊に歩み寄った。
「おい、君。大丈夫か」
 肩を軽く揺さぶると、塊が解けて、人の形になった。額を流れ落ちた前髪の間から、青みがかった目が現れて、コート姿の男をゆっくりと仰いだ。ヘルムートは思わず息をのんだ。平生なら石のように頑なであるはずの心が、一瞬にして溶けてしまったのは、その海に似た瞳のせいであるかもしれなかった。ヘルムートの故郷は、遠い港町であったから。
 少年は立ち上がり、年の割には丁寧な物腰で、ヘルムートに礼を言った。
「気分が悪いのか」
 いいえ、と乱れた学生服を整えながら、少年は答える。
「なぜこんなところに?」
 ここに住んでいるんですと言われて、ヘルムートは目を見張った。大学生の独居と思っていたが、もうひとりいたらしい。よくよく考えてみれば、高校生と自分とでは生活の時間帯が違うから、顔を合わせることがないのも無理からぬことではある。
「鍵は?」
 少年は目を伏せながら、それは、同居人が持っていると言う。
「自分のはどうした」
 これについては、なかなか重い口を開こうとしなかったが、どうにか詳しい話を引きだしたところによると、同居人が鍵をなくした、そしてこの少年が自分の鍵を貸した、しかし同居人はそれを忘れ、飲み会に繰り出し、そのまま友人の家に止まるのだという。
「連絡はとれないのか?……すまない、さっきから質問してばかりだな」
 少年は小さく微笑むと、首を横に振った。どうやら、相手の携帯の電池か電源が切れてしまっているらしい。
 話を聞くにつれ、にわかに腹が立ってきた。兄弟か親戚か友人か、二人の関係がどんなものであるかなど知ったことではないが、それでも、この扱いは不当に過ぎる。これでは召使いか小間使いか何かではないか。そもそも親はどうした。無責任な人間に子どもを預けて、ほったらかすとは何事か。
 しばし考えこんでから、ヘルムートは息をつくと、親指で自室の扉を示した。
「私の部屋に来るか?」
 少年は目を大きく見開いた。しかし次の瞬間には、その表情にはっきりと躊躇いと遠慮が浮かんでいた。
「勿論、無理にとはいわない。君さえよければの話だ。この時間では、もう駅前の店もやっていないだろうし。それに」
 ヘルムートの視線が、濃い藍で塗り固めれた空に向けられる。雪が降り始めていた。

 出会いのきっかけはかくの通りである。その日以来、少年は度々ヘルムートの部屋を訪れるようになった。彼の名は四太郎といった。ヘルムートはヨンと呼んでいる。高校生という年頃にしては寡黙な少年で、同じく口数の少ないヘルムートと二人で過ごす時間のほとんどは沈黙に満たされていたが、不思議と居心地が良かった。どこか、性質が似ているところがあるのかもしれない。
 共に過ごす、と言っても、別にたいしたことをするわけではない。借りてきた映画を観たり、食べたり、飲んだり、時々はヨンの勉強をみたりする。たまに食事に出るくらいで、外に出かけることはほとんどしなかった。高校生が好むような場所など、とんと見当がつかない。ヘルムートには兄弟がいなかったが、年の離れた弟がいればこのようなものなのかと頭の隅で考えていた。
 高校生ながら、ヨンは家事の達人であった。それに、細かいところまでよく気がつく。会社から帰ってきたヘルムートが、コートやネクタイをソファの上に放ったままにしておくと、いつのまにかきれいに整えられて、クローゼットの中に収まっている。料理の腕もたいしたものだ。家にある在り合わせの材料で、包丁捌きも鮮やかに、ちょっとした料理を作ってしまう。特に蟹料理が得意なようで、その味はレストラン顔負けである。
 ヨンが隣室の戸を叩くのは、大抵、同居人とうまくいかないときであった。同居人の雪夫は、ヨンの遠縁にあたるらしい。彼らがお互いを疎んでいるわけではない、むしろ大切に思っていることは話からも、態度からも伝わってくる。ただ少しばかり歯車がうまく噛みあわない、それだけなのだろう。だが、件の大学生の態度は、年齢ゆえの傲慢を差し引いても、行き過ぎであると感じることも少なくない。そういうとき、怒るのはヘルムートの方であって、ヨンは決して心を乱さなかった。何をされても、彼は許すのである。
「君は」
 あるとき、語調にわずかな苛立ちを交えながら、ヘルムートは尋ねた。ヨンの左手の甲には大きな傷が走っている。この傷について当人は何も言わなかったが、彼の同居人が関係していることは明らかだった。
「なぜ怒らない? 寛容も過ぎれば毒になるぞ」
 それでもヨンは唇を閉ざす。
「君には、望みはないのか」
 望み、と口の中で言葉を大切そうに転がしてから、少年はヘルムートを見つめた。そのまなざしは、普段とは明らかに違う光を帯びていた。緊張とも快楽の予感ともつかぬ何かが、ヘルムートの背を雷のように走り抜ける。海は凪の日ばかりではない。荒ぶる嵐の高波も、たしかに海の一部なのである。二つの身体の距離が、次第に近くなっていく。喉の奥がひどく熱い。鼓動を共有しているような錯覚を覚える。ややあって、ためらいがちに頬に伸びた指を受け入れたのは、冬の寒さのせいだろうか。

 大人は狡い。
 目を閉じれば、静かな瞳が暗に責め立てる。
 ああ、そうとも、とヘルムートは自宅近くの公園のベンチに腰掛け、紫煙を空に立ち上らせながら、眉間に深く皺を刻んだ。天を仰げど、あるのは重苦しい鈍色の雲ばかりで、星の瞬きひとつ見えない。
 あの夜から、ヨンと会っていない。
 いっそ、このまま逃げてしまおうか。故郷に背を向けた日のように。
 彼に自分が怖いのかと聞かれたら、そうだと答えるしかない。
 大人とはかくも小狡い生き物である。
 こうして距離を置くのは相手のためと言い聞かせながら、結局は自分の社会的な地位が惜しいのだ。朝目覚めたとき、床に散らばった学生服が陽光に照らされているのが目に入ると、熱と情欲の落ち着いた胸を占めるのは、喜びよりも罪悪感のほうが大きかった。
 真摯な関係であれば罪にならずと淫行条例は言う。しかし、と、夜闇に流れる甘くすえた空気を思い返しつつ、ヘルムートは考える。少しの下心もなしでそういった行為に及ぶ人間が、果たしてこの世にいるのだろうか。
 白い煙と共に、大きく息を吐く。
 捨てられぬ物が多いくせに、望む物もまた多い。だから屁理屈をこねて、自分を無理やりに納得させて、そして結局は捨てられない物の数だけ諦めるのである。
 だというのに、子どもには望みを持てと説教をたれる。それを受け入れる度量も甲斐性もないというのに、とんだお笑い種だ。雪夫の浅慮を、いったい誰が責められるというのか。最も傲慢であるのは、他ならぬ自分自身である。
 携帯用の灰皿に煙草を押し付け、重い腰を上げる。そのとき、後ろから声をかけられた。
「ヘルムートさん」
 驚きはしなかった。予感はあった。
 海を思わせる青は勝手な想像と違って、ヘルムートを責めるでもなく、ただ真っ直ぐに見つめているだけなのだろう。
 もう一度考える。
 逃げてしまおうか。
 すべてなかったことにして、適当な言葉で言いくるめて、あるいはこのまま振り切って逃げてしまおうか。また兄弟のように、穏やかで快い、虚ろな時間を共有できることを夢見て。
 凛とした、よく透る声が暗がりに響く。
「あなたはこの前、何を望んでいるのか、僕に聞きましたよね」
 それ以上言ってくれるなと願う己が忌々しい。自分は彼のような少年とは違う。厄介事を抱え、乗り切っていくだけの気力もなければ、時間もない。一途な強さもない。守り抜くだけの力もない。だとしたら互いに戻れないほど深く関わりあう前に、早々に見切りをつけて身を引くのが得策ではないだろうか。
「僕はそれに答えた」
 握った手のひらに、じっとりと汗が浮かぶ。そう、見切りをつけるのだ。
「だから今度は、僕の番です」
 雪が降り始めた。絶え間なく天から降り注がれる粉のような雪が、ふわりとふわりと静かに風に揺れ、世界を柔かに包み込んでいく。
「あなたの望みは?」
 ヘルムートは何も言わなかった。ただゆっくりと振り返り、初めて出合ったときと同じように、舞い散る白に浮かぶ、深い海の青を見た。




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