表紙



甘美なる聖者





 仕事を終えて帰宅すると、自室の扉の前に見慣れた姿があった。
「ヨン?」
 白い息で手を温めていた学生服の少年が、ヘルムートの声に反応して顔を上げた。
「こんばんは」
「どうした、何かあったのか」
 首をひとつ横に振ると、少年は鞄の中から小さな包みを取り出して、コートの胸に押し付けた。
「え……」
「じゃ」
「待て!」
 足早に去ろうとする少年の腕を、思わず後ろから強引に掴む。が、次の瞬間、ヘルムートは気まずそうに手を離した。
「悪い」
 そうか、今日はバレンタインか。会社で幾つか貰ったものの、実感は薄かった。
「待ってくれ、礼くらい言わせて欲しい」
 振り向いたヨンの頬と耳は、照れくさいのか、ほのかに赤らんでいた。口数と同じくらい表情の少ない少年であったから、これには正直驚いた。
 この顔を見られたくなかったのか。
 ヘルムートの表情がふっと和らいだ。そのまま自分のマフラーを外して、頬が隠れるように、ヨンの首にかけてやる。
「コートも着ないで、風邪を引くぞ」
「大丈夫です。体は丈夫ですから。でも、ヘルムートさんって」
 少年は静かに笑った。
「お父さんみたいですね」
「おとっ……?!」
 せいぜい兄くらいだと思っていたのだが。ヘルムートの顔が引きつった。
「僕、父の顔を知らないんです」
 初耳だった。
「そうか……」
「だから勝手に、ヘルムートさんみたいな人だといいなと思って」
 少年は淡々と続ける。
「あなたみたいに、優しい人なら」
 ここまで言うと、ヨンはやおら身を離した。
「では、おやすみなさい。そうだ、マフラー……」
「次に会うときでいい」
「すみません、お言葉に甘えます」
 立ち去りかけた少年の背に、ヘルムートは慌てて声を投げつける。
「ヨン!」
「はい?」
「あ、いや、その……ありがとう」
「……はい」
 少年を見送ってから、ヘルムートは丁寧に手の中の包みを開けた。
「優しい、ね……」
 呟きながら、ヘルムートは軽く銀の髪をかきあげた。冬の冷たい空気と共に口に含んだ手作りのチョコレートは、甘く、美味しく、どこかほろ苦い。




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