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ファウスト





 ファウスト=ヘルムート
 メフィストフェレス(悪魔)=ハーヴェイ

 ヘルムート博士は今宵も研究室で重くため息をつく。故国を去り、世俗的な一切を捨て、禁欲と孤独のうちに学問を修め、ついには確固たる名声を手にした彼であったが、世のあらゆることを知り尽くした結果といえば、己が何も知らぬことを知るばかりであった。山と積まれた書物はもはや神秘の力を失い、足掻けども足掻けども出口の見えない箱庭にいるよう。そこへ現われたるは一匹のむく犬。部屋に招き入れるやいなや、犬は遍歴学生のなりをした、ひとりの若い男に姿を変えた。
「よう、博士殿」
 部屋の主は、驚きもせずに来訪者を迎えた。
「犬の正体は悪魔というわけか。名前を言え」
「名前? 妙なことを言いなさんな。言葉を軽蔑して、見かけを侮って、真実だけを見極めようとしてたのは、あんただろう?」
「よくご存知だ」
「ああ、知ってるとも」
 悪魔は唇の端を引き上げた。
「あんたがさっき毒薬を飲もうとしたことも、それを飲めなかったことも」
 それを聞く相手の顔が微かに歪むのを、悪魔は見逃さなかった。銀の髪を指先にからめては、耳元に吐息と甘言を吹きこむ。
「どうだい、俺と来ないか? あんたを孤独の中から引っ張りだしたいのさ。色々な世界を見せてやる、人間と会わせてやる。世の中へ一歩踏み出すつもりがあるのなら、お供するぜ。召使にも従者にもなって、お使え申し上げよう」
 すげなく悪魔の身体を押しやりながら、ヘルムートは冷たく言った。
「で、俺は何を支払う?」
「それはまた後々」
「だめだ、だめだ。お前の言葉を信じろというのか? 悪魔はエゴイストだからな、人の役に立つことを無償でしたりするものか。条件をはっきり口にしてもらおう。貴様のような召使は、家の中に災いをもたらすものだ」
 悪魔はあきらめたように、手をひらひらと振った。
「わかった、わかったよ。この世では休むことなくあんたに仕えよう。……人使い荒らそうだしな。だが、あの世でまた会ったときには、あんたに同じ仕事をしてもらう。つまりは俺の僕になれってことだ」
「あの世のことなどどうでもいい。貴様がこの世をぶち壊しても、何とも思わん」
「そういうもんか?」
「ああ」
「ますます結構、何をためらうことがある? まだ誰も見たことがないものを見せてやる」
 細めた赤の眼差しに、自嘲の光が浮かぶ。迷う必要がどこにあろうか。この世にもあの世にも未練はないし、失うものなど、この身にはとうにないのだから。わずかの沈黙をおいてから、輝く二つの緑を見つめ、ヘルムートは口を開いた。
「賭けをしよう」
「そうこなくちゃな!」
「俺がもしある一瞬に対して、留まれ、お前はあまりに美しいと口にしたら、貴様の勝ちだ。縛るなり、鎖に繋ぐなり好きにしろ。俺は喜んで滅びることにしよう。弔いの鐘よ鳴るがいい、貴様の勤めもそれでしまいだ。時計よ止まれ、針よ落ちよ。俺の生涯もそこまでだ」
 悪魔は笑った。
「よく考えたほうがいい、俺たちは物覚えがいいぜ」
「構わぬ。そのときが来たら、貴様の下僕にでも奴隷にでもなってやる」
「そりゃ結構なこった。だがね、ひとつ頼みがある。口約束だけってのは勘弁願いたい」
「図々しい態度のわりに、細かい男だな」
「うるせえ。悪魔にもしきたりってもんがあるんだよ」
「ふん。で、何をすればいい」
「なに、血を少しばかりいただけりゃ」
「地獄の息子らしい、いかにも野蛮な契約方法だ」
「血ってのは、特別な液体なんでね」
 ヘルムートは懐から取り出した小刀でもって、指先にぷつりと小さな穴をあけた。白い肌に浮き上がる、ふっくりと膨らんだ赤を、悪魔はおもむろに口に含んだ。己の血潮が人ならぬ者の唾液と混じりあい、絡みあう感触に、背徳とも快楽ともつかぬ、あるいはその両方の気配を帯びた、ぞっとするような暗い悪寒が、ヘルムートの背を這いずるように上りつめていった。
「このような儀式がなくとも、約束を違えたりなどするものか。この約束こそが俺の求めていたものだ。思索の糸はとうに絶えてしまい、長いこと知識に吐き気をもよおしてきたのだ」
 ヘルムートは悪魔に顔を寄せ、低く言った。
「言っただろう、喜びなど求めてはいないのだと。思索と知識とはもう結構。眩暈をおこすほどの行為……痛みを伴った享楽や、愛ゆえの憎しみ、清々しいまでの不快さに身をゆだねたいのだ。それが俺の望みだ。どのような苦痛でも受け入れよう。この胸に快楽と苦痛を積み重ねてみたい、破滅がその先に待ち受けていようとも」
「何があんたをそこまで駆り立てる?」
 誘うように甘く問いかける悪魔に、男は静かな微笑で応えた。
「何もないことが」

※原本はレクラムのFaustI、訳は池内訳・相良訳・高橋訳・柴田訳を参考にさせて頂きました。




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