表紙



グリゼリディス





 空青き群島の海に、
 若き海賊がありました。
 その名はハーヴェイ、
 神はその生業に相応しく、
 あらゆる天分をば、
 この男に授け給いました。
 逞しく、素早く、勇猛で、
 ひとたび戦とあれば誰もかも、
 雄々しく先陣を切る彼の姿を見たことでしょう。
 剣振り上げるたびにひとつ、またひとつと敵の命は潰え、
 返り血を拭うは別の血という有様、
 その活躍たるや鬼神の如しと恐れられるほど。
 
 この称えるべき性質に影を落とすのは、
 烈しすぎるその気性。
 過ぎたる情熱は煉獄の炎に似て、
 己の身すら滅ぼしかねません。
 しかし、陸では厭うべきその傷も、
 荒ぶる海の暮らしには、
 優れた美徳となりました、
 ひとりの男に会うまでは。

 出会いは偶然、
 無人の島に探索に出た折、
 傷ついた兵士を見つけたのが始まり。
 己を睨む赤い双眸に、
 ハーヴェイは心奪われました。
 ただちに男を連れ帰り、
 傷の癒えるまで世話をしました。

 二人が情を交わすのに、
 多くの時間は必要ではなかった、
 兵士ヘルムートはもとより義理堅き男、
 恩ある者の望みとあらば、
 その細腕で拒もうはずもありません。
 ハーヴェイを受け入れた理由はもうひとつ、
 加えて祖国を捨てた悔恨が、
 諦観へと形を変えて、
 魂の底深く沈んでいたのです。
 
 彼らが重ねた時は、あまりにも穏やかでありました。
 しかし、安らかな日々ほど長くは続かぬもの、
 不幸の中に幸福を見出すのが人ならば、
 幸福の中に不幸を見出すのもまた人の性、
 海賊の心に落とされたのは一滴の毒、
 その名を不安と言いました。
 激しい嫉妬を追風に、
 疑心の炎が瞬く間に燃えあがりました。 
 ハーヴェイは己の心を蝕んでゆく、
 苦しみの芽を払おうともがきます、
 ヘルムートの後をつけ、監視をし、
 徒に心身を束縛し、あるいは不安を駆り立てて、
 偽りと真実を見極めようと目を凝らしました。

 それが叶わぬとわかると、
 光の一筋も射さぬ船室に閉じこめて、
 あらゆる世の楽しみから遠ざけました、
 蒼穹はいらぬ、海原もいらぬ、
 二つの赤が己だけを映すように。

 それでもなお嗜虐の心は満足しないとみえて、
 次には、与えた全てを返せと迫りました。
 心乱すことなくヘルムートは従います、
 けれど、形あるものは返せども、
 その肉と魂に刻まれた、
 想いの跡は消せはしない。
 しかし、かの海賊の傲慢が、
 求めるものはまさにそれ、
 己を見つめる瞳に仄めく気配、
 幸福の影をば抉り出そうと、
 かつて癒した同じ手で、
 肢体をひどく傷つけました。

 恨みのひとつも零さぬヘルムートを見て、
 ハーヴェイの胸に後悔と恥じらいとが、
 広がることもありました、
 けれどもそれはすぐに消え、
 より非道なる折檻でもって、
 一条の陽光に似た優しさまで残酷に、
 闇の黒へと塗りかえてしまいます。
 
 だが、どんなに厳しく追及しても、
 不義の痕跡など見当たらぬ。
 それは当然、嫉妬は己が心の産みし子ら、
 自身の姿を映す鏡。
 悪意に曇る眼には、
 鏡に歪む自分の顔も、
 憎き敵に見えるのもの。
 それゆえ打撃は強さを増すばかり、
 しかし、ヘルムートは耐え忍びます、
 それこそが自分の勤めと言うように。
 
 身と心とを責めたてる、
 むごい仕打ちも数尽きた頃、
 海賊は冷たく言いました、
 自分はある娘と結婚の契りを交わした、
 しかして船を降りよと。
 これは偽りにして、ハーヴェイが仕組んだこと、
 かの人の心をば、確かめるための試金石、
 けれど、あわれヘルムートは真実を知るはずもなく、
 命じられるまま船を降り、
 果てなき旅路へと向かいました。

 海賊は知りません、
 船眺める目に浮かぶ光は静か、
 さながら凪の海のよう。
 海賊は知りません、
 愛撫に育まれたどのような愛も、
 この眼差しほどの激しさを持たぬことを。

※新倉訳と巖谷訳を参考にさせていただきました。




表紙

inserted by FC2 system