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笑顔の休日





「……ハーヴェイさん……?」
 病室の扉を開けた瞬間、ナレオは声を失った。胃に熱い何かが焼けるように溜まり、足が震え、顔色がみるみる青くなっていくのが、自分でもわかった。つい先ほどキカに呼び出されて、ここへやってきたわけだが、普段の通り、雑用か何かを頼まれるのだろうと軽く考えていた。まさか、このような光景を目の当たりにすることになろうとは、思いもしなかったのだ。
 呆然としたナレオのそれとは対照的に、ハーヴェイの口調はどこまでも朗らかだった。
「その声、ナレオか? どうした、怪我でもしたか?」
「違います、僕はキカ様に呼ばれて……それはいいんです。それよりも、ハーヴェイさんです! 何があったんですか、その目?!」
 ナレオが駆け寄ると、若い海賊は声音に照れを滲ませながら、両目を覆う包帯に触れた。
「ああ、これか。たいしたことねえよ。ちっとドジ踏んじまっただけだ」
「ドジ、って……そんな……」
 平生、生命力の塊のような男であるから、ナレオの目には、病室の椅子に座りこんでいるその姿が、そして包帯の白の清潔さが、いやに痛々しく映った。背筋をぞっと、冷たいものが走っていく。
「獣の体液を目に浴びたのさ」
 病室の奥から、キカが姿をあらわした。
「キカ様……あの、ハーヴェイさんは……」
「安心しろ、失明には至らなかったらしい」
「よかった……」
 ほう、と安堵の息を吐いて、少年は床の上にへたりこんだ。
「すみません、びっくりしちゃって」
「何だよ、大げさすぎるぜ」
 苦笑する海賊を、上司は厳しい声でたしなめた。
「お前は黙っていろ。調子に乗って、ひとりで勝手に飛び出して、手当たり次第に肉を引き裂いていたのは、どこのどいつだ?」
「す、すんません……」
「仕置きの件は怪我が癒えたあとだ。医者の話によると、少しの間、目が使いものにならないらしい」
 ここでくるりと、ナレオのほうに体を向ける。
「呼び出したのは外でもない。ナレオ、悪いんだが、今日一日こいつの世話を頼むよ」
 女海賊の腕が、とん、と不肖の部下の肩を叩いた。
「キカ様! 俺は別に」
「男のくだらない意地ってのは、私も嫌いじゃない。が」
 女は端正な顔を、彼女の片腕にすっと寄せた。切れ長の瞳に、鋭い光が走った。美しい、が抜き身の剣を思わせる鋭利さである。ハーヴェイの瞼奥に眠る二つの緑は、黒のほか何も映してはいないはずであったが、一語一語を口にするたび肌を刺すように流れる緊張感は、視力に頼らずともキカの凄みを伝えるには十分であった。
「ハーヴェイ、お前、自分の立場を理解しているか? 今のお前ひとりで何ができる? 剣が振るえるか、紋章砲が撃てるか。歩くことすらままならないだろう」
 言い切られては、反論できるはずもなかった。ハーヴェイは言葉をぐっと飲みこんだ。
「本当なら、シグルドあたりに任せるところだが、あの調子でね」
 キカはため息をつきながら、親指で別の寝台を示した。
「もう食えん……むにゃ……」
 その先には、いかにも幸せそうに眠る黒髪の青年。
「シ、シグルドさん?」
「あっちは幻覚にやられたらしい。しばらくすれば意識は戻るそうだが」
 ハーヴェイがくそっ、と舌打ちした。
「あいつ、肝心なときに要領いいよな。ったく、羨ましいもんだぜ」
「大事に至らなかっただけ幸運と思え」
「まったくです! 命あってこそですよ、ハーヴェイさん!」
 二方向からぴしゃりと窘められる。
「はあ、そうっすね……」
「じゃあ、そういうわけだ。ハーヴェイを連れて行ってくれ」
 そのとき、ナレオがおずおずと尋ねた。
「あの、キカ様」
「何だい?」
「このまま病室で休んでいたほうがいいんじゃないでしょうか? この状態で船内を歩くのは危ないと思いますし……」
「あいにくだが、今日は怪我人が多いらしくてね。もう病室に余裕がないそうだ。それに、こいつはじっとしているのが苦手な性質なのは知っているだろう? ベッドに縛りつけておくと、そのうち暴れだすかもしれない」
「は? 俺、動物かなんかすか?!」
「違ったのか?」
「そうでしたね……キカ様の仰る通りです」
「おいおい、ナレオまで」
「なんてね、冗談ですよ」
 にっこりと笑う少年に、キカはぽつりと言った。
「……冗談、だったのか?」
「キカ様……ひでえ……」
「とにかく、頼んだぞ、ナレオ」
「はいっ! ハーヴェイさん、行きましょう!」
「へいへい」
 扉に消えゆく凸凹の背を眺めながら、世に名高き女海賊が、その厳しい表情を柔らかく綻ばせたことを、二人ははや、知る由もない。

「歩けますか?」
「おう……なあ、包帯外していいか?」
「外しちゃって平気ですか?」
「別にいいんじゃねえか? 医者は何とも言ってなかったし。瞼の辺りがかゆくってさ」
 言い終えるか終わらないかのうちに、海賊はさっさと包帯を取ってしまった。はなからナレオの意見を聞く気はなかったらしい。
「やれやれ、すっきりしたぜ」
「もう……」
「やっぱり見えねえな。どうだ、おかしいとこあるか?」
 ハーヴェイが瞬きしながら、顔を寄せてくる。
「ぱっと見た感じは、普段と変わりませんが……焦点があっていないですね」
「なるほどねえ」
「肩をお貸ししましょうか?」
「この烈火のハーヴェイ様にか? 百年早いぜ」
 他愛もない話を重ねながら、ナレオの助けを借りつつ、そろりそろりと壁の感触を手繰っては、少しずつ歩を進めていく。
「毎日歩いてる通路だけどよ、目が見えないと案外、勝手がわかんねえもんだな。……おっと、わりい」
「あんっ」
 足がよろけて、前方から歩いてきたジーンと、正面から衝突してしまう。
「もう、気をつけてね。坊やたち」
 美貌の紋章師が去ってから、ハーヴェイは見えないはずの目で、自分の手をじっと眺めた。
「何か、めちゃくちゃ柔らかかったんだけど……俺、今すげえもったいないことしたか?」
 ナレオの瞳がじっと、ハーヴェイを仰ぐ。
「……やっぱり肩、貸しましょうか?」
「や、大丈夫だって。そのうち慣れるさ」
「でも……あ、そうだ」
 しばらく考えてから、ナレオはぽんと手を叩いた。
「こうしましょう!」
「お、おい!」
 温かな感触が、ぎゅっとハーヴェイの手を掴んだ。ナレオは明るく言った。
「こうすれば歩きやすいですよ」
「これで船んなか歩くのかよ?!」
「……ハーヴェイさんは、僕と手を繋ぐの、嫌ですか?」
「ばっ、い、嫌とかそういう問題じゃなくて……いや、別に嫌ってこたあねえけど……」
 恥ずかしいとは言い出せないのを、ナレオは持ち前の勢いで押し切った。
「じゃあ、いいですよね!」
「え、あ、ああ」
 まんまとのせられた気もするが、今更後悔しても、時すでに遅し。
「ハーヴェイさん、どこか行きたい場所ありますか?」
「え? 別に……いや、あった」
「どこですか?」
「便所。そういや、朝から行ってねえや」
 ナレオはそれを聞いて、目をきらきらと輝かせた。
「さあ、行きましょう!」
「待て! このままでか?!」
「はい、このままで!」
「お前もか?!」
「僕もです!」
「手伝わなくていいからな!」
「いえ、手伝いますから!」
「勘弁してくれ!」
「キカ様に言いつけちゃいますよ!」
「……!」
 ハーヴェイの叫びに似た声は、厠の穴に空しく溶けていった。

「ったく、メシ食うのにも一苦労かよ」
 悲劇と呼ぶに相応しい――片方にとっては、だが――厠の一件後、二人は昼食をとるために、食堂へと向かった。匙を使うハーヴェイの手つきは危なっかしい。スープを口に注ぎこむ、それだけの動作すら、なかなか思うようにいかない。
「くそ……」
「あの」
「ん?」
「あーん、して下さい」
「?!」
 青年の顔が凍りつく。
「……ハーヴェイさん、わかってください。僕だって、面白がってやっているわけではないんです。でも、さっきからハーヴェイさん、少しも食べてないじゃないですか。だから、ね?」
「お前さ、シグルドに変な知恵、叩き込まれてねえよな……?」
「シグルドさんに、ですか? いいえ?」
 ナレオはきょとんと不思議そうな顔をした。
 しばし困惑の表情を見せていたハーヴェイであるが、諦めたように息をつき、おもむろに口を開いた。
「……ほらよ。さっさと突っ込んでくれ」
「はいっ! では、あーん……」
 そこに迫るひとつの影。
「ハァーヴェーイ!」
「うわっ、ダリオか?! 急に現れんな!」
「メシ食わせろ!」
「手前ェ、自分の分があんだろ?」
「足りねえよ!」
「僕のをどうぞ、パパ」
「おう、すまねえな」
 それを聞いたハーヴェイが、手探りで親子の間に割って入った。
「やめろ、やめろ。ナレオ、お前、成長期だろ? しっかり食っとけよ。ダリオ! ほら、俺の分でいいだろ!」
「そりゃ、食いもんなら、何でもいいぜ」
「だめです!」
 横から伸びてきたナレオの腕が、椀をひったくった。
「あ、あの、ハーヴェイさんは怪我をしているんです! だから栄養をとらないといけないんです!」
 その柔和な眼差しに、いつになく強い意志が浮かぶ。
「パパ……ごめんなさい。今日だけは、今日だけは譲れないんです!」
「ナレオ、お前……」
 ふいに緊張した室内に、小さな音が鳴った。
「へくちゅん!」
「?!」
 突然宙から降ってきた、料理、料理、また料理。
「ご、ごめんなさい! またやっちゃった……」
 ビッキーはぺこりと頭を下げた。
「えーと……あの、これもしよろしかったら、皆さんで召し上がってください!」
 卓の上に山と盛られた、肉、野菜、魚。群島風に大陸風、種類も豊富、よりどりみどり。パンもご飯も食べ放題。香ばしい匂いを鼻先に感じながら、三人は呆然と呟いた。
「……まあ、ダリオ」
「……おう」
「……これで足りますよね、パパ?」
「……お、おう」

 何とか食事を終えた途端――結局例の騒ぎのせいで、『あーん』はできなかったのだが――、今度は風呂に引きずられていく。
「別に今日入んなくてもいいだろ?」
「いけません! 体液がまだ残っているかもしれませんよ」
「!」
 その問題発言に周囲の人間が一斉に振り向くが、ナレオは気にしない。
「んで、風呂入るときも手ェ繋いで、ってか?」
「はい、勿論です!」
「心配すんな、ひとりでも入れるぜ。服脱ぐのは問題なかったし、見えないのにも慣れてきたしな」
と、自信満々に言い切った次の瞬間、床に落ちていた石鹸を踏んで、滑って転んでひっくり返った。
「いってえ……」
「ハ、ハーヴェイさん?!」
「ふん、無様だな」
「あ、何か、今一番会いたくない奴の声がしたような……」
 自慢の銀髪を可愛らしくひとつに結び、小桶片手に颯爽と登場したのはクールークの元士官。
「だが、貴様には似合いの格好かもしれぬ。そもそも、ふだん二足歩行で歩いているほうがおかしいのだ」
「こんにちは、ヘルムートさん!」
「……君も大変だな」
 礼儀正しく挨拶をする少年に同情にも似た視線を向けたあと、さもゴミでも見るような目つきを、足元に転がる男に投げつけた。
「さっさとその醜い物体をしまえ。目に毒だ」
「手前ェだって同じもん、ぶらさげてんだろうがよ!」
「ヘルムートさんも、これからお風呂ですか?」
「ああ」
 身を起こしなながら――勿論、腰にてぬぐいを巻きつつ――、ハーヴェイは不機嫌さも露に言い捨てた。
「よせよせ、ナレオ。そいつに近づくと、ムッツリがうつるぜ」
「怪我をしたと聞いたが、大事なさそうだな。残念だが、頭の出来もそのままか」
「んだと……」
 剣呑な空気をうち割って、ナレオが厳しく言った。
「やめてください! どうして仲良くできないんですか、大人なのに! 折角のお風呂なんですから、楽しく入りましょうよ」
 穢れなき正論に、うっ、と二人は言葉をつまらせた。と、ふいに背後から立ち上る、妙な威圧感。
「そうだぜ。風呂場にゃ、国も生まれも年も身分も関係ねえ。裸と裸のぶつかり合い……すなわち魂のぶつかり合い。それが風呂ってもんだ」
 全員が恐る恐る振り向くと、そこには、風呂場の絶対君主たる男がにこやかに仁王立ちしていた。が、目は笑っていなかった。
「風呂場の平和を乱す野郎は、なあ、どうなるかわかってんな、お前ら?」

「……っ! ハーヴェイ、もう少し力の加減というもの考えろ!」
「へーへー、すんません、すんません」
「貴様……」
「だから謝ってんだろ。しかしナレオ。うまいな、お前」
「ありがとうございます。コツはよく濡らしておいて、優しく揉むように……ですね。ハーヴェイさんって、意外と固くて太いんですね。長さもあって」
「ああ、よく言われるよ。あ、わりい。指が滑ってイっちまった」
「いい加減に……」
「ヘルムートのも触ってみろよ」
「……すごい! 気持ちいいです!」
「この辺とかいいぜ」
「んっ……」
「何だ、ここ弱いのか? ふーん、なるほどねえ。……ナレオ、やれ」
「はいっ!」
「何?!」
「ひいひい言わせちまえ!」
「ヘルムートさん、覚悟!」
「ぷっ、ははは、や、やめろ! 触るな! くっ、これしきの……あはは……やめ……」
「いくら口ではそう言っても、体のほうは正直みたいだぜ? なあ?」
「ええ、ヘルムートさん、本当に楽しそう……もっと頑張ってくすぐりますね! とりゃ!」
「ひっ……はは……勘弁、してくれ……くく……」
「これがタイスケさんの言っていた、『裸の付き合い』ってやつですね!」
 タイスケに命じられたのは、「一列洗髪の刑」。ヘルムートの髪をハーヴェイが、ハーヴェイの髪をナレオが洗う。風呂場の法は万人に等しく、絶対であった。
 その日、浴室には哀れなクールーク人の叫びが、いつまでもこだましていたという。
 
 風呂から自室に戻った途端、ハーヴェイは寝台どっかと倒れこんだ。やはり本調子とはいかないらしい。
「何だ、すげえ眠い……」
「もうお休みになりますか?」
「あー……そうする……」
「そうだ、手……」
 繋いだままの手を解こうとすると、ハーヴェイが強く握り返してきた。
「いいよ、このままで。お前の手、あったけえな」
「……ハーヴェイさんの手は、大きいですね」
「そうか?」
「はい、とっても大きいです。それから、力強い」
「褒めすぎだぜ」
 枕に顔をうずめながら、ハーヴェイはぽつりと言った。
「そういや、ナレオとこんだけ長い時間一緒、ってのは今までなかったな」
「そう、ですね……え?」
 だしぬけに指が伸びて、ナレオの頬に触れた。
「動くな、ちょっと大人しくしてろ」
 頬からはじまって、顎、唇、鼻、目、額、耳、それからまた頬。ハーヴェイの手はそのまま、少年の顔立ちを確かめるように、優しく愛撫を繰り返した。
「ふーん、お前ってこんな顔してたのか」
「ハ、ハーヴェイさん?」
「知ってたつもりだったけど、実は何も知らなかった、ってわけか。目ェ見えないから見える、そういうもんもあるんだな」
 独り言のように呟くと、少年のように顔をほころばせた。
「お前、きっといい男になるぜ! 俺の次くらいにはな」
「そうですか? うーん、そうだといいなあ」
「ダリオに顔似ねえで良かったな。……それから」
 ふいに、ハーヴェイの顔が間近に迫った。吐息の熱を知るほど近くに。
「今日はありがとな。お前のお陰で退屈しなかった」
 ナレオは、緑の瞳に自分の姿が映っているのを見た。
 瞬間、世界から音が消えた。しんと静まり返った。
「あ、れ……」
 空ろな眼差しは少年を映すが、映すだけだ。それだけなのだ。
 気付くと、頬を熱いものが伝っていた。
「ナレオ」
 ハーヴェイは眼前の涙を知らない。呆然とする少年を知らない。だから笑って続ける。
「お前ほんと、しっかりしてるよな。よくやってるよ。偉い偉い」
「そんなことないです」
「あるって。ちったあ、自信もてよ」
 泣いているのを悟られないように、ナレオは腹に力をこめた。
「ほら、もう寝るんじゃないですか?」
 ハーヴェイは軽く頷くと、よほどひどい眠気に襲われていたらしい、崩れ落ちるように眠りこけてしまった。
 安らかな寝息をたてる男に、少年は静かに語りかけた。
「僕、いい子じゃありません。ずるいんです」
「あなたと同じ景色が見たかった」
「でも、いつまでたっても追いつけなくて」
「だから、目が見えなくなったと聞いたとき、心のどこかで喜んでいました」
「ずっとこのままで、ずっと治らないでほしいと思ってしまった」
「それなのに」
「……ハーヴェイさん。早く起きて下さい」
 ナレオは寝台に突っ伏し、まどろみに身と心を任せた。

 やがて朝が来る。
 緑の目は光を取り戻すだろう。
 停滞していた時が動きだす。
 その身は戦場へと舞い戻り、その腕は刺撃の感触を思い出し、その横に立つのは黒髪の青年。
 すべては定められた位置に戻り、すべては日常に帰っていくのだ。
 しかし、と思わずにはいられない。
 狂おしいほど愛おしい、笑顔と喜びに満ちた明るい世界のなかを、手に手をとって再び共に歩んでいく。
 そんな未来を夢見ることは、許されるだろうか。




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