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彼には向かない職業





 クールーク軍の朝は、小隊ごとの点呼からはじまる。広場に整然と並ぶ数千の影は蠢くにも音なく静か、各々の隊の人員を告げる叫びだけが、暁の空に浮かび上がっては溶けていく。
 そのとき、ひとりの若い兵士が、己の言うべき番号を違えた。群れから無防備に飛び出した。ほんの一瞬、波の引く様に似て、さあっと沈黙が広がった。
 銀髪の上級士官が、ついとそちらに視線を向ける、硬質な歩調が続く。と、間をおかず、がつん、と鈍い音が響いた。兵士たちはよく訓練されているとみえて、鼓膜に大石を叩きつけられたような衝撃にも、眉ひとつ動かさなかった。が、場に走る鋭い緊張の痛みまでは、その鍛えられし忍耐を持ってすら抑えることができなかったらしい。前向く幾つもの眼差しの奥に微か、恐怖が翳る。
「虫けらが」
 足元に蹲る男を見下ろし、その顎を軍靴のつま先で蹴り上げ、唾を吐きかけるように言い捨てる。
「ヒトの言葉すら発せられぬか。やり直し」
 靴底から滲む小さな呻きを知らぬ素振りで、整った唇を更に動かした。
「返事は」
「はい!」
 土の気配の混じるかすれ声を耳に留めた若い将校は、それから、と冷淡な語調を崩さず言った。
「第十二小隊は本日より一週間、朝晩の宿舎の清掃に当たれ。わかったか?」
 部下たちはごくりと喉を鳴らすことによって、その返答とした。しかし、上官はそれを許さなかった。鞭の大きくしなるように、ぴしゃりと激しい叱咤が飛ぶ。
「返事!」
「は、はい!」
 壇上からその様子を眺めていたトロイが、横に立つコルトンに呟いて言った。
「あれは、つくづく軍人に向かぬ男だな」
「誰がです」
「ヘルムート」
「何ゆえ」
「昨晩、自室で必死に練習していたぞ」
「は?」
「虫けらだとか、蛆だとか」
「……なるほど」
「言っては苦しげに顔を歪め、顔を歪めてはまた言う。その繰り返しだ」
 乾いた目線で息子の背を見やりながら、父は息を吐いた。
「とんだ未熟者ですな。居合わせたのがトロイ殿であったから良かったものを、部下に聞かれでもしたら」
「因果な勤めだ。深すぎる情は、いずれ仇となるやも知れぬ」
 人のことは言えませんぞ、若様。
 コルトンは口を開きかけた。が、言葉にしても意味のないことだったので、嘆息と共に喉深く飲みこんだ。




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