表紙



波を聞く





 あなたの祖国の言葉を教えて欲しい。
 イルヤ島から帰還した軍主が、ふらりとヘルムートの元へ来、平生と変わらぬ、穏やかな声音で言った。しかしそう告げる一瞬、海に似た青の眼差しがわずかに揺れるのを、青年は確かに見た。ヘルムートは思わず眉間の皺を解いた。なにゆえかと問えば、相手のことを知らずに戦うのは恐ろしいと答える。それは理に適った答えであったし、端から拒絶できる立場にはなかったから、クールークの元士官は頷きひとつでもって承諾した。もっとも、知った者の肉と血に塗れるほうがよほど恐ろしくはないかと自身は考えたが、あえて口にすることはなかった。
 船内にヘルムートの出自を知らぬ者などないとは言え、その国言葉をむやみに発するのは憚られたので、求められれば他者に聞こえぬよう、クールークの響きを少年の耳元にささやいた。あるいは夜半に軍主の部屋で、文法の教授をすることもあった。戦場を、言葉を、また秘密を共にすることは、時に人と人とを結ぶ不可思議な糸となる。親しみとは呼べぬ、しかしどこか安らいだ空気が、かつて剣を交わしたその同じ身を浸すのであった。
 ある晩、卓を挟んで向かいに座る少年の首筋に汗が光るのに、ヘルムートは気がついた。日中は曇りだった。気温はそう高くない。
「今日はもう止めだ」
 言いながら、椅子を引いた。
「休みなさい」
 大丈夫です、と気丈に言うが、その顔色は青い。理由は問わずとも明白であった。ヘルムートは卓上に置かれた左手に、厳しい視線を投げつけた。
「いいから、休め」
 と、半ば引きずるように、少年の身体を寝台に沈めた。起き上がろうとする半身を片手で押し留めるのを何度か繰り返したのち、不本意な表情を見下ろして、呟くように言った。
「貴殿は聡く、沈着で、情け深く、何より強い。私などより、よほど優れた人間だ。だが美点と呼ぶには、忍耐のすべを知りすぎているようだな」
 唇から溢れるようにするすると流れでる言葉を、ヘルムートは自嘲と共に聞いた。未だ迷い多き身で傲慢に、一体何をうそぶこうというのか。
「いつか押しつぶされるぞ」
 少年は目をそらさない。青年はそれを受け止める。布越しに軽く触れ合った肌が、ひどく熱く感じられた。真なる紋章の宿主は、神にも等しい力と永き命を持つという。だが彼は神ではない。誰よりも強く、慈悲深く、しかし弱さ持つ人間なのだ。指先ににじむ温もりが、沈黙のうちにそれを示す。
「誰しも自分ではどうしようもないような、衝動、情念、不安、苦痛、あるいは欲望を抱えこんでいる。どうしようもない、だから外にそれをぶつけるしかない。もっと人を憎め、怒れ、責めろ。……とは言っても、貴殿にはできぬだろうな。だから手に余るようなら、私に向ければいい」
 ヘルムートは祖国の言葉で静かに言った。
「もとより死んだ人間だ、俺の命は君の手にある」
 そのとき、罰宿る手が軍服の腕を掴んだ。抗うことを許さぬ強さであった。そのまま、寝台に身体を押しつけられた。素早く抜かれた剣先が、風のようにヘルムートの首筋を滑り落ちる。
「あなたは卑怯です」
 静かな光をたたえていた眼差しに、激しい憤怒が走った。
「僕ができないことを知って、それを言うのか!」
 柄を握る指は力強い、しかしヘルムートは眉ひとつ動かさない。この刃の無力を、両者は正しく知っていた。
「それを、あなたは」
 ふいに少年は絶句し、呆然とし、やがて淡黄色の肩に顔を埋めた。
「ああ、そうだな。悪かった」
 青年は微かに笑って、頬にかかる髪をぎこちなく撫ぜた。
「悪かった」
 ひとこと口にすると、ヘルムートはもはや何も言わなかった。ただ震える肩を抱き、閉じた瞼の暗がりの向こうに、熱く脈打つ血潮の叫びを、遠く寄せる波の音を聞いていた。




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