表紙



ただいま戦闘準備中





 ある休日のけだるい午後、深崎少年は自宅から遠く離れた隣市の図書館にいた。長いコートを羽織り、顔にはさりげなくマスクをしているが、それは変装と呼ぶにはあまりにもささやか過ぎるものであった。ちょうど昼食の時間と重なっているためか、館内に人の姿はまばらだった。しかし、籐矢は緊張をほどこうとはしなかった。あたりを注意深く見回し、それから目的の書棚に早歩きで近づく。そのまま、本の背表紙に書かれた文字をひとつひとつなぞった。
「……これかな」
 ある一冊の本に至って、籐矢の指はぴたりと動きを止めた。その本の題名は「同性愛の世界」。
 籐矢がなぜこの本を探していたのか。その理由は異世界からやってきた彼のパートナーにあった。
 恋い慕う関係の自然な結果として、ふたりは身体を求め合った。しかし、ここで問題が生まれた。どうすべきかわからない。ソルはずっと閉鎖された世界で暮らしていたためそういった知識には乏しく、ましてや籐矢は普通の男子高校生である。小中学校で一応教育は受けてきたが、同性を相手にする際にはどうしたらいいのかまでは教えられなかった。そこで籐矢は、その手の話に詳しそうな級友にそれとなく話題を振ってみたのだが、どうやら、かなりの痛みをともなうらしいとのことだった。しかし、ソルに苦痛を味あわせてまで、自分の欲望を満たすつもりは毛頭ない。果たして級友の言葉が事実であるのか、もっと詳しく話を聞きたかったが、さすがにそれはためらわれた。だから、こうしてわざわざ変装までして家から遠いこの図書館に足を運んだのである。彼のためにも自分のためにも、正しい知識は必要であった。
 籐矢は真剣なまなざしで、手にした本の字を追った。そこには、リィンバウムに召還された時よりも、衝撃的な新世界が広がっていた。熱心に本の項をめくる。あまりに熱心すぎたので、自分の背後に迫る人影にすこしも気付かなかった。
「センパイ!」
 だしぬけに声をかけられ、籐矢はとっさに本を書棚に戻した。目にもとまらぬ速さだった。この反射神経のよさは、日頃の鍛錬の賜物だろう。
「克也くん……」
 名前を呼ばれて、克也は調子のよさそうな笑みを浮かべた。相手の声の調子が沈んでいるのにはまったく感付いていないようだった。
「あれ、センパイの家って、この近くでしたっけ?」
「い、いや」
 籐矢は目を逸らしながら答えた。
「ちょっと調べものがあってね」
「へえ、センパイもですか。俺も明日提出の宿題が終わらなくって。日本史苦手で」
 克也は頭を掻いた。
「センパイはなに調べてたんですか? すごい熱心に本読んでたみたいですけど」
「ああ、でももう終わったから」
 思わず唇がこわばる。
「そうなんですか」
「じゃあ、先に失礼するよ。宿題頑張って」
 籐矢は軽く手をあげてほほえみ、ねんごろな別れの言葉を残して足早に去っていった。ひとり残された克也は、籐矢の後姿がすっかり見えなくなると、好奇心から彼の手にしていた本を探した。
「センパイ、何読んでたんだろ。あ、これだったかな。……?!」
 その本の題名を、克也の頭は一瞬認識できなかった。しばらくまじまじと桃色の背表紙を見つめ、やがてぽつりとつぶやいた。克也の脳裏に、先ほどの籐矢の珍しくあわてているような姿が浮かぶ。
「センパイ、もしかして俺のこと……」

 それとまったく同じ時刻、家路につく籐矢の口からくしゃみがひとつ飛び出した。
「ほんとに風邪引いたのかな」
 マスクを外し鼻をこすりながら、突き抜けるような青い空を仰いだ。




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