表紙



君のいる世界





 籐矢は大通りを抜け入り組んだ住宅街の道を、家へ向かってぼんやりとした面持ちで歩いていた。その日は部活動もなく、いつもよりも早く家路につけたというのに、足取りは重かった。
 ソルが籐矢の住む世界にやってきて数日、はじめはただひたすらに再会をよろこんだ。彼がやってきたのはホームルーム終了直後の校内で、教室内にはまだ多くのクラスメイトの姿があったというのに、人目をはばかることすら忘れて、涙があふれて止まらなかった。そのときの自分の様子を思い出し、籐矢はわずかに顔を赤らめた。けれど数日経た現在、胸に抱くのは染み渡るようなあたたかいよろこびと激しいいとおしさよりも、この世界でのソルの身の振りかたをどうすればよいのかという現実問題であった。
 戸籍は?
 生活費は?
 住む場所は?
 仕事は?
 はたして、ソルは余裕が少なく制約の多いこの世界の暮らしに適応できるだろうか?
 いつか、ここに来たことを後悔する日がやって来るのではないだろうか?
 あまたの困難を乗り越たゆえの精神的な強さを持ち、同年代の少年よりもずいぶんと大人びているといっても、籐矢はまだ高校生であった。ひとりで考えれば考えるほど、沼地の泥に足を取られたかのように深みにはまっていくようだ。重くのしかかる現実と理想と感情の落差の前に、籐矢は己の無力さを思い、苦く笑った。
「守るって、大口叩いていたくせにな」

 やがて、沈んだ気持ちと足どりはそのままに家までたどり着いた。ポケットから鍵をとりだしゆっくりと扉を開ける。
「ただいま」
 その声に反応して、奥の部屋からソルがひょっこりと姿を見せた。
 ここ数日、ソルは籐矢の家に滞在していた。家族には、海外在住の友人で日本には語学留学のためにやってきたのだと説明してあるが、いつまでもこのとっさに考えた言い訳が通用するとは思えなかった。
「母さんは?」
 しかし胸に不安の影が潜んではいても、ソルの姿が目に入ると自然にやわらかい笑みが口元にこぼれる。ソルも笑顔を返した。
「買い物だ」
 そう言ってから、さらにソルは籐矢の顔をまじまじと見て、口を開きかけた。
「お」
「お?」
 籐矢は不思議そうな表情で、何のことかと聞き返した。
「……かえり」
 ソルは聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声でぼそとささやいた。籐矢は目を大きく見ひらいた。ソルは照れくさそうに下を向いて続けた。
「何か、妙な感じがするな。こんなこと、今まで誰にも言ったことがなかったから」
 籐矢は虚を突かれたように黙り、呆然とソルの目を見つめる。
「すまない、変なことを言……」
 ソルの言葉が最後まで語られることはなかった。突然、籐矢がソルのからだをきつく抱いたのだ。
「ごめん」
 玄関にはわずかな段差があったので、ソルの顔がちょうど籐矢の制服の肩に乗った。指が茶の髪をすく。
「ごめん。もう答えは出ていたはずなのに」
「どうした?」
 籐矢は戸惑うソルの声には答えず、さらに腕の力を増した。互いの居場所を確かめるように、ただ力強く。




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