表紙



ふたり暮らし





 籐矢は手もとを動かすのを止めて、目の前で荷を解くソルの姿をぼんやりと眺めていた。
「おい、何ぼけっとしてるんだ?」
 だしぬけに、ソルが眉をひそめながらずいと顔を近づけてきた。
「もう夜なんだぜ、わかってるか」
 そう言いながら、未だカーテンすらつけていない窓を指差す。外はすっかり夕闇につつまれていた。我に返った籐矢はあわてて、ダンボールに貼り付けられたガムテープを勢いよく剥がした。
「あ、うん、ごめん」
 ソルは積まれたままのダンボールを見てため息をついた。
「引越しってやつは、思ったよりも時間がかかるんだな」
 籐矢が大学に受かった年の春、ふたりが新たな生活をはじめたのは、郊外に建つ、古い木造アパートの片すみの小さな部屋であった。それまで、籐矢の両親と一軒屋で暮らしていたためか、その部屋はひどく狭く感じた。それからしばらく真面目に作業に勤しんでいたものの、せっせと働くソルの姿が目に入ると、ふたたび、籐矢の意識が飛んだ。
「トウヤ!」
 きつくたしなめられて、自分を取り戻す。
「ご、ごめん」
「さっきからどうしたんだよ。お前らしくないぜ」
 しょんぼりと背中に哀愁を漂わせながら、剥がしたガムテープを手際よく丸めて、籐矢がぽつりとつぶやいた。
「なんだか」
「ん?」
「この部屋にいると、ソルとの距離が近いなと思って」
 ソルは声を失って目を見開き、それから赤らめた顔をふいとそむけた。
「……馬鹿」
 その仕草が目に入ると、籐矢の心にくすぶるものがあった。
「あのさ、ソル」
 やさしく名を呼びながら、次第に距離をつめる。
「何だよ」
 次に来る行動をすでに予感したように、ソルは身体を強張らせた。
「寒くない?」
「だから、荷解きがまだ終わってな」
 言葉がしまいまで発せられるその前に、半ば強引に口付けた。それから、腕を強く引き寄せられる。引越しにともなう雑務に忙しく、肌を重ねるのはずいぶんと久方ぶりであったから、ソルの理性ははじめ抵抗を試みたが、結局は己の欲求に従った。
 しかし、今まさにふたつの身体が絡み合おうとしたとき、突然、籐矢が顔を上げた。
「どうした?」
 ソルが腕の下から怪訝そうに尋ねると、籐矢はあたりを見まわして、耳の後ろに手を当てた。
「どこからか、音がしない?」
「音?」
 籐矢は、立ちあがると部屋のなかを一回りし、それから、ぴったりと壁に耳をつけた。ソルは乱れた服を直そうともせず、籐矢の横に座り込んだ。
「籐矢?」
「ごめん、ちょっと静かにしてくれるかな」
 それからややあって、籐矢が小さくため息をついた。
「やっぱり、隣りの部屋のテレビの音だ」
「そんなものが聞こえるのか?」
「夜になると、外が静かになるから余計に響くのかも」
 一軒家住まいに慣れたふたりにとっては、これはまったく予想外の出来事であった。
「……まずいね」
「……まずいな」
 困った風に、互いに顔を見合わせる。
 しばらくして、じゃあ、と籐矢が沈黙を破って提案した。
「声はなるべく押さえて」
「いや、待ってくれ。俺にいい考えがある」
 ソルは詰め寄る籐矢を手で制しながら、すでに整理されてある箪笥の引き出しに手を伸ばした。
「確か、上から三番目に入れたはず……あった」
 籐矢はソルの取り出したものを、不思議そうに見つめた。
「手ぬぐい?それで何を?」
「ああ、こうするんだ」
うなずいて、布団屋からせしめた手ぬぐいを口に巻く。
「ほれへいいらろ」
「……ソル?」
「らんらよ?ほら、はやくひろよ」
 籐矢は少しの間考え込むように無言でいたが、やがて意を決したように、小柄な身体を畳の上に押しつけ、両の手首を片手でつかんだ。その体勢のまま、ソルを凝視する。ソルは怪訝な表情で、動きの止まった籐矢の瞳を仰いだ。
「ほうや?」
「……なんかさ」
「らんら?」
 自分をまっすぐ射ぬく目に、やましい感情を見透かされたようで、籐矢は妙な照れくささを覚えた。
「いや、これからやましいことをしようとしているわけなんだけど」
 そう独り言を口にしながらも、手にこめる力をさらに増した。
「らりひとりでいってるんら?」
「なんか、これって」
 目に映るのはただひとつ、口に手ぬぐいをきつく巻かれ、両手の自由を奪われたソルの姿のみだった。籐矢のなかで、それまで眠っていた、黒い欲望がゆっくりと頭をもたげはじめた。そして、あえてそれに逆らうことはしなかった。
「らから、ろうひたんらよ」
 あどけないほど無防備なソルに、籐矢はいたずらっぽく笑ってこたえた。
「いや、何でもない」
 一度頭を振ったあと、くちびるを首筋にあてた。
「何でもないよ」

 情事のあと、ソルは激しく息を切らせながら、堪えきれないように、手荒く手ぬぐいを外した。
「な、んで、今日は、あんな……」
「ええと」
 大きく息を吸うソルを見て、恍惚にぼんやりとした頭で籐矢は言葉をさがした。
「よかった?」
「ば、馬鹿!」
 ソルの拳が容赦なく籐矢の顔面を直撃した。鈍い痛みのなかで、誓約者はこの晩、自分のレベルがあがったのを自覚した。
 しかし、ふたりの新生活はまだ、幕を開けたばかりであった。




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