「いただきます」
まず、鍵を開ける金属のこすれ合う音がひびき、続けて、乾いた空気をきしませて扉が開く。
籐矢は、ただいまのひとも言わず、靴を脱ぎ、手を洗うと、細身の体を滑り込ませるようにダイニングに入った。
鞄を置き、制服のボタンをひとつ外しながら、食卓の上のメモに視線を落とす。
おかえりなさい。今日も遅くなります。おみおつけは、温めて食べてください。
ゆるく山を描く白いナプキンを持ちあげると、その下には、焼いたあじの開きと、ひじきの煮つけ、それから、箸と伏せたお椀とお茶碗が、きちんと並べられていている。
茶碗を手にとって、炊飯器のふたを開ける。
立ち上る湯気をかき分けて、慣れた手つきで白いご飯を盛った。
みそ汁は、温めるのが面倒だったので、そのまま椀につぐ。
冷蔵庫を開けてとりだしたふたつ小鉢のなかには、大根おろしと、朝の残りのポテトサラダが少し。
麦茶をガラスのコップに半分ほど注ぎ、一度目はひと息に飲み干して、それから、二度目は注ぎ足して卓の上へ。
そうして、ひとり席につく。
外は夕日の色も濃く、音ひとつない。
薄いカーテンから、太陽の放つ最後の光が滲んだようにもれて、沈黙する食器の群れと、籐矢の横顔を照らす。
やがて、背筋を伸ばし、両の手のひらを合わせ、心のなかでつぶやいた。
いただきます。
茶碗を左手に、ふっくらと炊き上がったご飯を口に運ぶ。
そういえば、ひとりで食事をとるのは久しぶりかもしれない。
皿の上にしょうゆをたらす。
毎日まったく変わりばえしない夕食の光景、ただし、あの世界に行くまでの。
箸であじの身をほぐす。
顔を上げれば、まず、おかずを取り合っているモナティとエルカの姿が目に入る。
しょうゆと大根おろしを絡めたあじの身の、香ばしい味が口に広がる。
それを見たガゼルが怒鳴る。それを見たリプレがガゼルを叱る。
ひじきの煮つけの入った小鉢を、手で引き寄せる。
それを見た子どもたちがリプレの加勢に回る。
麦茶を乾いた唇に少し、含ませる。
レイドとエドスはその光景にすっかり慣れてしまっているのか、あきれた顔ひとつしないで談笑している。
ついばむように、小さくひと盛、サラダを箸でつまむ。
ジンガはまわりの喧騒には気づかないようすで、がむしゃらに目の前の料理をかきこんでいる。
籐矢はここで、口に運ぼうとする箸を止め、横を向いた。
そして隣にはいつも彼がいる。
「ソル」
こぼれでた自分の声の強さに驚いて、籐矢は急に目がさめたようになった。
とっさにあたりを見回すも、ただ、部屋には自分ひとりである事実を眼前に突きつけられるだけだった。
心ざわめくようなにぎわいはすべて幻であって、現実にはからすの鳴く声ひとつしなかった。
少し困った風に笑うソルの姿は、触れようと手を伸ばそうとした途端、影のように消えてしまったのだ。
籐矢は大きくため息をつくと、手元にあったみそ汁をすすった。
冷え切ったみそ汁が、喉を焼くように通り過ぎる。
どうしてか、いつもより塩辛い味がした。
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