背中あわせ
その日、籐矢は、窓から差し込む朝の陽光のまぶしさに目を覚ました。
細めた目で、部屋の中をぐるりと見回す。
フラットで迎える何十回目の朝は、一見、普段と何ひとつ変わったところのないように思われた。
そのまま普段着に着替え、外套を羽織り、寝ぼけ眼のまま部屋の外に出た。
そうして、すぐ隣の部屋の扉を軽く叩く。だが、中からの反応はない。
籐矢はわずかに肩を落とした。
「……まだ怒ってるのかな」
しばらく棒きれのように突っ立っていたが、閉ざされた扉の沈黙に耐え切れず、やがて、足取りも重くその場を立ち去った。
昨日、この部屋の主である召喚師と籐矢は、珍しく言い争いをしてしまった。
きっかけは、本当にささいな、つまらないことだったのだ。
しかし、喧嘩はその場では収まらず、ソルは怒って部屋に閉じこもってしまった。
籐矢は元来、朝が苦手なほうで、この時間ならばソルはすでに起きているはずだった。
返事がなかったなかったということは、つまり、と籐矢は考えて、再び肩を落とした。
「おはよう、籐矢」
食堂に入ると、リプレの笑顔と明るい朝のあいさつが、覇気のない表情の誓約者を迎えた。
「今日はあったかいわね」
リプレは慌しく朝食の支度をしながら、気安く籐矢に話し掛けたが、昨晩のことを詮索するようなことはしなかった。
その心遣いがありがたかった。
「ソルは、もう起きてるかい?」
「うん。さっき見かけたけど、どこかに出かけたみたい。朝の散歩じゃないかな?」
籐矢はしばらく、ソルの姿を探してあたりを見回していたが、忙しそうに働くリプレを見て、「何か手伝うよ」
この申し出に、リプレは首を振った。
「こっちは大丈夫。あ、そうだ。モナティとエルカを呼んで来てくれない? まだ寝てるみたいなの」
「ああ、わかった」
「あれ?」
籐矢が食堂を出ようと背を向けたとき、リプレが素っ頓狂な声をあげた。
「どうしたの?」
リプレは慌てて首を振った。
「う、ううん、なんでもないの。ごめんね」
「いや、何もないなら別にいいんだけど」
「二人のことよろしくね。……あれって、籐矢の世界のおしゃれかも知れないよね、うん、きっとそうだよ」
不思議そうな顔のまま食堂を立ち去る籐矢を尻目に、リプレはひとり得心したようにうなずいた。
モナティとエルカの部屋に向かって歩いていると、突然、すぐ後ろから、爆発するような盛大な笑い声が聞こえてきた。
振り向くと、声の主は腹をかかえて笑うガゼルであった。
籐矢はいぶかしげにたずねた。
「どうしたんだい?」
「あはははは!」
「……ガゼル?」
ガゼルは息を整えながら、籐矢の肩をぽんぽんと叩いた。
「は、腹いてえ……何だ、お前気づいてないのかよ?」
「だから、何が?」
ほんのわずか、むっとしたような語調は、ガゼルはの笑いのツボをさらに強く押したようだった。
苦しげな息の下から、絞りだすように続ける。
「い、いいや……わかってないなら、いいんだ。気にすんな、じゃ」
そう言い残すと、ガゼルはなおも腹をさすりながら、「いやあ、いいもん見たぜ。普段スカしてる奴のっては、破壊力があるな」
ひとり残された籐矢は呆然と呟いた。
「……さっきから、何なんだ」
「あ、マスターですの!」
そのとき、前方の扉が開いて、モナティがひょっこり顔をのぞかせた。
「おはようございますですの」
籐矢の顔に自然と笑顔が戻った。
「おはよう、モナティ。エルカは?」
それを聞くと、モナティは頬をふくらませた。
「マスター、聞いてくださいですの。エルカさんったら、自分が寝坊したのにモナティの……むがむが」
その瞬間、後ろから伸びてきた手がモナティの口をふさいだ。
「ちょっと、馬鹿レビット、何言ってるのよ! エルカは寝坊なんてしてないんだから」
籐矢は苦笑しながら言った。
「こらこら。遊ぶのもいいけど、もうそろそろ行ったほうがいいんじゃないかな。リプレが食堂で待ってるよ」
エルカは籐矢をきっと睨みつけた。
「ふん、遊んでなんかないわよ! 誰がこんな間抜けなレビットなんかと」
「あっ、エルカさん、ひどいですの」
モナティのささやかな抗議に構わず、エルカはずんずんと歩き始めた。そのあとを追いかけるようにしてモナティとガウムが続く。
「ほら、さっさと行くわよ」
「おいていっちゃいやですの! あれ、マスターは一緒にいかないんですの?」
「僕はもう少ししてから行くよ」
「はい、待ってますの!」
モナティに屈託のない笑顔を向けられ、籐矢は困ったような笑みを浮かべた。
「わかった、わかった……やれやれ、朝から元気だな」
しばらく歩いてから、何気なく振り向くと同時に、モナティが籐矢の背を見て、「あっ」と、小さな声をあげた。
「エルカさん、エルカさん。あれって何ですの?」
その声に反応して、エルカも振り向く。
「……?」
「あ、もしかして、エルカさんも知らないんですの?」
エルカは顔を赤くして、威嚇するように仁王立ちになった。
「ば、馬鹿にしないでよ、レビットのくせに! 知ってるわよ、もちろん。あれはね、トウヤの世界の遊びよ。ハタシジョウごっこっていうの」
モナティの顔がぱっと明るくなった。
「すごいですの! やっぱり、エルカさんは物知りですの」
「ふん、馬鹿レビットに褒められたって、ちっともうれしくないわよ」
「モナティもあとで、ハタシジョウごっこに入れてもらいたいですの!」
籐矢の耳にも、そのやり取りはおぼろげに入ってきていたが、会話の内容までは把握できなかった。
ただ、文句を言い合いながらも仲の良さそうな二匹の召還獣を見ていると、夏の雨雲のようなもやが心に広がっていくようだった。小さくため息をつく。
「やっぱり、もう一度ソルの部屋に行ってみよう」
そのとき、何かが後ろから外套を引っ張る感触があった。
釘にでも引っかかったのかと思い振り向くと、そこには釘ではなく、籐矢を見上げる小さな少女の姿があった。
「おにいちゃん」
「レミちゃん?」
籐矢は驚いて、視線を落とした。
「どうしたの、マントを掴んだりして」
「あのね、しゃがんでほしいの」
「おんぶかい?」
「ううん」
籐矢は内心首を傾げながら、レミの言うとおりにした。
レミは籐矢の背から何かを引き剥がした。
「はい」
「これ……」
レミに手渡されたのは、一枚の紙だった。
それを見た途端、籐矢は思わず吹き出しそうになってしまった。
「なるほどね、これだったのか。そうか」
籐矢はそれを優しい目で何度か読み返すと、素早く筒状に丸めて制服のポケットに押し込んだ。
それから、レミの柔らかな髪をなでた。
「ありがとう、教えてくれて」
レミはぬいぐるみをきつく抱きしめながら、こくりと頷いた。
「なかなおり、してね」
「ああ、もちろんだよ」
レミの小さな不安をかきけすように、籐矢はにっこりと笑った。
紙いっぱいに豪快に書かれた、「ごめん」の文字。
それは籐矢が教えたひらがなで、ぎこちなく綴られていた。
真剣ななまざしでそれを書く彼の様子が、鮮やかに頭に浮かぶようだった。
籐矢は胸を弾ませながら、今もどこかを照れくさそうにぶらついているはずの彼の姿を探して、走りだした。
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