表紙



口づけ





 ヤードに借り受けた書物を胸に抱き、ウィルは海賊船内に用意された自室に向かっていた。その書物は召還術について書かれたもので、早く項を繰りたい思いを自制し、わずかにほおを紅潮させて早足で歩みを進める。ウィルの足の動きに合わせて、木の床が小気味良い音を立てた。そのまま彼の師の部屋の前まで至ったとき、ふと目の前の扉が半ば開いている状態であるのに気がついた。不審に思い、緊張した面持ちでそっと扉を押す。
 だが、ウィルの緊張とは裏腹に、部屋の主はそこにいた。ただし、机にからだをつっぷしてぴくりとも動かない。開け放たれた窓から、島特有の湿り気をおびた風が舞い込んでいた。
 ウィルは眉をひそめると、足音を立てないように、ゆっくりと机に近づいた。レックスの背中がかすかに上下しているのが見えた。つづいて、小さな寝息が聞こえる。
「……先生、寝てるの?」
 よほど疲れているのか、自分にかけられた声に全く気付いていないようで、閉じられた瞼が開かれることはなかった。このように昼間から無防備に眠る師の姿を、ウィルははじめて目にした。
「あなたは、いつも無理しすぎるんだよ」
 師の置かれた状況に思いを馳せ、ウィルは困った風に笑った。ただ、目は笑っていなかった。それから、注意深く本を床に置き、寝台の上の薄布をひっぱってきた。ウィルが背伸びして両手を挙げると同時に、ふわりと宙を舞った薄布がレックスの背中を優しく包み込む。
「風邪、引きますよ」
 おだやかな声で言いながら、ウィルは改めてまじまじと師の顔を覗き込んだ。時おり、諦観と紙一重に思える人の良い笑顔は、今そこには見られない。あるのは、あどけない子どものような寝顔だけだ。閉じられた目の奥にあるはずのやわらかく、強い光を思う。視線はゆっくりと鼻、ほおを辿って、くちびるを注視する。乾いたくちびるがかすかに動き、寝息がもれる。
 その光景が目に入った瞬間、ある欲求が電流のようにウィルのからだを突き抜けた。ウィルはそれに対してにわかに戸惑いを見せたが、抗うことはしかった。できる術を持たなかった。
 だから息をつめ、自分の顔をレックスのそれに次第に近づけていった。相手の呼吸が聞こえ、確かな体温を感じると、頭の奥が白く痺れるような感覚とともに鼓動が高鳴る。胸が甘くつまる。この、心の奥深くに息づくものが何を意味するのかまではわからない。わかることといえば、欲求のままにウィルのくちびるがレックスのそれに触れたそのとき、彼の中にある何かが変わってしまうということだけだった。世界が音を立てて崩れ去るか、あるいは別の何かが生まれるか。
 空気がはりつめ、きつく握る手が汗ばんだ。
 あとほんの少しだけよせれば、ふたつのくちびるは重ねられるほどの近しい距離に至って、ウィルの動きがふいにとまった。互いの吐息のほかには、なにひとつ音のない無言の世界に、長い静寂が訪れる。重なり合ったふたつの影は、微動だにしなかった。ウィルは幼く、それゆえひたむきなまなざしをレックスに向けた。
 しばらくの沈黙ののち、ひとり心地につぶやいた。
「いつか、この意味を教えてくれますか」
 そしてくちづけることはせずに、床に置いた本を拾うと静かに部屋を去った。生徒の姿が扉の向こうに消えた後も、レックスは何も知らずやすらかな寝息をたてて、夢すらも見ずこんこんと眠りつづけていた。




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