表紙



星に願いを月に祈りを





 体を包みこむ心地よい揺れ、肌に感じる体温のぬくもり、そしてあたりにやさしく満ちる人の気配。
 クラレットはとろんと蕩けたように目を細め、こくり、こくりと頭を動かした。目の前のぬくもりに、そっと頬をよせる。懐かしい匂いだ、とクラレットは思った。このような美しい思い出を、自分が知るはずもないというのに。
 ここではたと我に返って、クラレットは顔を上げた。そうして、自分の今いる場所を確認する。それまでばら色に紅潮していた頬が、みるみる青く、それから赤くなった。
 彼女が体を預けているそこは、ナツミの背の上だった。
「ナ、ナツミ! わたし降ります、降りますから!」
 今にも泣きそうな声で、クラレットは懇願した。友人の不安をかき消すように、ナツミは軽く振り返って笑った。
「あれ、起きちゃった? 大丈夫だよ、クラレット軽いし。ほら、背負ったままでも走れちゃうよ」
「ナツミ! いけません!」
 しかし、叫びに似た声は次の瞬間、花のし萎むように沈んでいった。
「本当に、わたし……」
 ナツミは小さな子どもを諭すように、穏やかに言った。
「足、怪我してるんでしょ? お願いだから無理しないで」
 クラレットは押し黙った。せんにナツミと共に野草を取りに入った森で、倒れた古木につまずき足をくじいたのは、事実だった。
 沈黙が、二人の間に重く横たわっている。
 体はこれ以上不可能というほど近くにあるのに、相手との距離がどこか遠くに感じられた。
「あのね、クラレット」
 沈黙を破ったのは、ナツミの明るい声だった。
「あたしさ、本当に全然辛くなんかないんだよ。それよりも、クラレットの怪我が悪くなるほうが、それを見ているしかできないほうが、ずっとずっと苦しい」
「ナツミ……」
 その優しい声音にクラレットは、嬉しいよな、泣きたいような、不思議な気持ちになった。
 額を、静かにナツミの背にあてる。
「……ごめんなさい」
「そういうときはね、どっちかっていうと、ありがとう、のほうが嬉しいかな」
「ありがとう、ナツミ」
「どういたしまして!」
 しばらく歩いて、ふいにナツミは空を仰いだ。
 このとき、もうすでに日は暮れていて、空は隅々まで漆黒の闇に覆われていた。
 薄暗い夜道にあって、ナツミの腰に下げたカンテラだけが、淡い光を放っていた。
「今日は星が見えないね」
「そうですね」
 頷くクラレットの瞳にも、小さな星の瞬きひとつない、深い闇が映る。
「でも」、とクラレットは続けた。
「晴れの日は確かに気持ちが良いですが、こういう夜も、わたしは好きです。雲の奥に隠れた星のかがやきを想像するのは、とても楽しいことですから」
 それを聞くと、ナツミは黙りこんだ。
「……ナツミ?」
 背中から伝わる不安そうな問いかけに、ナツミは盛大な笑い声で応えた。
「すごい、すごいよクラレットは!」
「え?」
 クラレットは目をきょとんと瞬かせた。
「わたし、何か変なことを言ってしまいましたか?」
「ううん、違うんだ。ああ、やっぱり、あたしクラレットのそういうところ、大好きだよ」
「え、え?」
 戸惑うクラレットに微笑みだけ返して、ナツミは前方を真っ直ぐに見つめた。
 その先には、小さな家が建っている。居心地が悪そうに街の中心からは離れ、しかし窓には人の手で灯された優しい明かりと、子どもたちの朗らかな笑い声が絶えることがない。
「ほら、もうすぐ家だよ。帰ろう、みんなが待ってる!」

 やがて、ナツミが自分の世界へと帰り、それからしばらくして、すっかりがらんどうになった隣の部屋にも慣れはじめた頃、クラレットは夜空をふたたび眺めるようになった。空は、時に月の光に明るくかがやき、時に泉の底よりもなお濃い闇に包まれていた。そんなとき、思い出すのは決まってあの夜見た空だった。
 灰色の雲むこうにかがやく星は、クラレットだけのものであり、また、今は遠く離れた彼女だけのものだった。
 目に映らない星だからこそ、ふたりは同じ星を見ることができる。
 思いが言葉となって、クラレットの唇から、静かに溢れていった。
 もう一度、あなたに会いたい。




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