表紙



名もなき灯火





 一台の黒い高級車が、夜のビレッジを影のように過ぎていった。品良く整えられた車内から、九条昴は白い指先を滑らせて、車窓の露をぬぐった。冬の紐育はひどく冷え込む。吐息すら凍てつくようだ。うすく曇ったガラスの間から、切れ長の瞳がすっと、上方に向けられる。
 ここ最近、昴の生活に、ほんのささやかな変化がみられるようになった。夜、車で外出する際に、必ず、ビレッジ地区の、小さなアパートの前を通るようになったのだ。何をするでもない。いつも車内から、その部屋の窓に明かりが灯っているのを、遠目からちらと確認するだけだ。扉を叩けば、部屋の主が半ば驚きの表情で、半ば大きな喜びでもって、迎えてくれることはわかっていたが、決してそうはしなかったし、この習慣を告げるつもりもなかった。なぜかは昴にもわからなかった。ひとつだけはっきりしていることは、車窓から、その淡い光が闇に浮びあがっているのを眺めるとき、どこか安堵している自分がいて、滲むように柔らかな幸福で心満たされていく、ただそれだけのことだった。ささやかな光だ。紐育の夜、よほど注視して見なければ、ネオンの波に圧巻されて、容易く飲みこまれてしまうだろう。多くの人にとっては風に踊る枯葉の一枚に等しい存在を、しかしどうしても確かめずにはいられなかった。そして、暗く沈んだ窓辺を目にした夜は、黒い不安が、糸のように心を絡めとるのだった。目に映る窓の明かりはあまりにも小さく、けれどあまりにも心に大きかった。昴はこの灯火の名を知らない。そしてこれから先、名付けることもないだろう。ただ、胸に広がるこの温かさを、今、感じることができれば、それでいい。
「スバル」
 たとえば、それは、ピアノの鍵盤を叩く指先の奥から、流れるように溢れだす。それは幾重にも連なって、小さなの喜びを、ゆるやかに、そして高らかに歌いあげた。
「いい音になったな」
 昴はカウンターに向けて、静かな笑みだけを残し、人気のないジャズバーを後にした。車に至る数歩、白い息を深く吐きながら、冴えた冬の空を仰ぐ。
 淡く小さな光を尊び、深く果てのない闇への畏れを抱く。手に入れると同時に、喪失の予感を胸に刻む。心地よい体温が離れたあと、失われていく肌の熱に指を伸ばし、たれ知れず恋う。多くを失い、また多くを手に入れる。そのとき人は、名もなき灯火を胸に宿し、そのとき人は、歌を知る。




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