表紙



密やかな勝負





 新次郎はその日、二人きりの楽屋で意気揚揚と、昴にこう語った。
「この前、サジータさんにネクタイの大切さを教えてもらって」
 言いながら、新次郎は自慢げにモギリ服の胸をはった。
「家で練習したんです。どうですか? 前よりうまくなったと思うんですけど」
「へえ、サジータがね」
「はい!」
「たしかに、身なりを整えるのは、大切なことだ」
 昴の顔が、そっと新次郎の胸元に近づいた。
「そうだな、前よりもましになった気はする……ほんの少しだけだが」
 辛い評価とともに送られる、上目遣いのまなざしは、どこか甘く、艶やかだ。新次郎の頬がさっと赤みを帯びた。
「あの、昴さん?」
「でも、僕は」
 白い指が、するりと首筋に伸びる。
「ネクタイは締めるより……ほどくほうが、好きだけどね」
「えっ、あの、そのっ!」
 そのとき、昴は悪戯を成功させた子どものように、目を細めた。手を上下させて、あたふたする新次郎の姿を、心底楽しげに見つめやる。
「……なんてね」
「すっ、昴さん!」
「おや、どうしたんだい? 顔が赤いよ」
「か、からかわないで下さい!」
「僕は、からかってなどいないさ、大河。いつでも本気だ。では、稽古があるから、これで失礼するよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、昴さん!」
「よい気晴らしをありがとう。また明日」
 そう言い残して、それ以上のことばを拒絶するように、小柄な影は踵を返した。

 ひとり廊下を歩きながら、昴は扇子の骨に添えた親指に、静かな力をこめた。
「……まったく、自分で仕掛けておきながらこの様とは」
 この道は惚れるが負け、惚れられるが勝ち。開いた扇の奥に火照る顔を隠して、この勝負、不本意ながら、引き分けかもしれないと昴は考えた。




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