表紙



リカとしんじろーの珍道中





「ふー、これで今日の仕事は終わり」
 劇場の事務室、雑務を終えて一息ついている新次郎の背に、突然、飛びつくものがあった。
「しんじろー!」
「うわっ!」
 新次郎は声をあげてから、首ねっこに巻きついたままの少女に笑いかけた。
「何だ、リカか」
「いしししっ! びっくりしたか?」
「ちょっとね」
「しんじろー、うそついてるな。ちょっとじゃなくて、すっごくびっくりしてた!」
「そ、そんなことないよ!」
 顔を赤くしながら、ささやかな抵抗を試みなつつ、新次郎は机上の書類を棚に丁寧にしまった。リカは背中におぶさったままだ。
「もう稽古は終わったの?」
「うん! だからいっしょにかーえーろーっ」
「いいよ。リカと帰るの、久しぶりだね」
「やったー、しんじろーといっしょ! うっれしいな、くるくるくるーっ」
「わ、リカ! そんなにくっついたら歩けないよ!」
 こうして、新次郎とリカは連れ立って歩きはじめた。リカは新次郎の腰のあたりをぴょこぴょこと飛びまわっている。新次郎はそのはしゃぎように苦笑しながら、その踊るような動きを眺めていた。
「ほらほら、歩けないってば、リカ。ほんとうに嬉しそうだね」
 リカは威勢よくうなずいた。
「だって、しんじろーと帰るの、すっごくたのしい! ノコもうれしいって言ってるぞ」
「きゅー!」
 もっとも、ノコが嬉しそうなのは、リカ以外の人間がいれば食べられずに済むだろうという、本能的な安心感からであったのだが。
「もしかして」
 そのとき、ふいにリカが立ち止まった。明るかった表情に、にわかに翳りがおびはじめる。
「ん、どうしたの、リカ?」
 小さな手でモギリのズボンをつまみながら、リカは悲しげなまなざしを新次郎に向けた。
「しんじろーは、リカと帰るの、うれしくないのか?」
 新次郎は慌ててかぶりを振った。
「そ、そんなことない、すごく嬉しいよ!」
 それを聞くとぱっと、リカの表情が花の咲いたようになった。
「ほらみろ、しんじろーもリカといっしょ!」
「はは、そうだね」
 新次郎の顔も、つられてゆるんでいく。
「リカ、しんじろー大好き!」
「え……」
 無邪気な笑顔を向けられて、一瞬、新次郎は驚いたように目を見張り、それから気恥ずかしそうに頬をかいた。
「エヘヘ、そんなにはっきり言ってもらえると、何だか照れちゃうなあ」
「なーなー、しんじろー。なんで大人はあんまり好きって言わないんだ?」
「そ、それは……難しい質問だなあ」
「リカ、みーんな大好き、だから好きって言う! そうすると、胸がぽかぽかしてくる。だから、しんじろーも言ってみろ!」
「なるほど……よーし、それなら」
 気合とともに腹に力をこめた。
「ぼくもみんなが大好きだーっ!……ほんとうだ。何だか、胸があったかくなるね」
「いししししっ! そのちょーしだぞー! ちゃんとみんなの前でも言うんだぞ」
「いいっ?! さ、さすがにそれは……日本男児として……」
 すっかり安心した風のリカは、新次郎の腕にぶら下がりはじめた。
「あっ、そうだ。しんじろー、リカの家よってけ! コーヒーいれてやる」
「コーヒー? リカの部屋にあった袋の?」
「プラムに作りかた教えてもらった。豆を撃って粉々にして、お湯につっこむ!」
 新次郎の顔が引きつる。
「それ、お、おいしかった?」
「うっまいぞー、たぶん!」
「……たぶん?」
「リカ、飲んだことない。しんじろー、よろこべ、一番のりだ。やったな!」
「た、楽しみだなあ……」
 そうして、楽屋の前に来たところで、背後から声をかけられた。
「リカ、新次郎!」
 二人が振り向くと、スーツをきっちりと着こんだ長身の女性が、軽く手を振っていた。
「サジータ!」
「今、帰るところ?」
「はい」
「しんじろーといっしょだ!」
「ちょうどよかった。おなか減ってない? お菓子があるんだけどさ」
 リカはふふんと鼻を鳴らした。
「チョコあーげた! は、もう引っかからないぞ」
「違うよ。あたしがそんな大人気ないことするはずがないだろう?」
「えー。じゃあ、この前のサジータは大人じゃなかったのか?」
「……そういう子には、ビスケットをあげないよ」
「ビスケット?!」
 リカの目の色が変わった。それを見て、サジータはにやりと唇の端を上げた。
「さっき、クライアントに缶入りのをもらったんだ、上等なやつをね」
「ビスケット……」
「でも、リカはいらないみたいだねえ」
「いるっ!」
「どうしようかなあ」
 サジータは手にした紙袋のなかから、ちらりとビスケットの缶をのぞかせた。
「サジータのいじわる!」
「ほーほほ、なんとでもおっしゃい」
 リカの目にうっすらと涙が浮かんでいた。よほどビスケットが食べたいらしい。
「しんじろーも何か言え!」
「……ぼくも食べたいなあ」
 頼りないながらも援軍を得たリカは、勢いよく反撃に出た。
「ほらほら、しんじろーも食べたいっていってるぞ!」
「ふふ、しょうがないねえ」
 その必死な様子に、サジータは苦笑しながらついに折れた。もっとも、はじめからあげるつもりだったらしいことは、その嬉しそうな表情からして明らかだ。
「ほら、たっぷり四十枚くらい入ってるらしいから、二人で仲良く分けるんだよ」
 リカは顔をぱっと明るくして、差し出された紙袋に飛びついた。
「ありがとー!」
「ありがとうございます、サジータさん」
「どういたしまして」
「サジータ、やさしいな!」
「そうだね」
 新次郎も嬉しそうにうなずいた。が、明らかにリカと同等に扱われていることには気付いていない。リカは早速、ばりばりと勢いよく包みを開けはじめた。
「うわー、ビスケットたくさんだ! えっと、バターに、ジャムに……チョコ!」
「おいしそうだね」
「しんじろーには、えっと、これとこれやる!」
「二つだけ?」
「こらこら、リカ。新次郎にも分けてやりなって言っただろう?」
「えー……しょうがないなあ。とくべつだぞ」
 リカは渋々と指を差し出した。
「ありがとう、リカ……って、み、三つ?!」
 二人の様子を見て、サジータは声を殺して笑いはじめた。
「ほんっと、あんたたちってさあ……」
「どうしました?」
「いーや、何でもない。あたしは仕事があるから、もう行くよ。じゃあね」
「ばいばい!」
「そうだ、リカ、サジータさんにもビスケットを……」
「ああ、あたしはいいよ。ダイエット中だからさ」
 ひらひらと手を振りながら、サジータは踵を返した。
「サジータ、いいやつだな!」
 リカは幸せそうにビスケットを頬張りながら、ぐっと拳を握った。
「リカ、決めた。もう、つまめるなんて言わないぞ」
「つまめる? 何のこと?」
 新次郎はふしぎそうに聞き返した。その瞬間、去りかけていたサジータがくるりと振り返った。その顔には、貼り付けたような微笑みが乗っている。
「あ。やっぱりそれ、返してくれる?」
 本能から身の危険を察知したか、リカの顔が青ざめていった。
「リ、リカ、なにも言ってない! 今のなし!」
 サジータは猫にそうするように、甘い声でやさしく問いかけた。
「まさか、あれを他の連中にべらべら話したりなんてこと、するはずないわよね、リカ? あなたはとってもいい子ですものね」
 顔には慈愛に溢れた笑みが浮かんでいる。口調は穏やかだ。だが、瞳だけが笑っていなかった。
「やばい。しんじろー、逃げるぞ!」
「ぼくは別に悪いことなんて……」
「いいから来いっ!」
 恐いもの見たさで振り向くと、瞳に炎をたぎらせたサジータが、問答無用で追いかけてくるのが新次郎の目に入った。
「わひゃあっ?!」
「まあああああてえええええええ」
 逃げるバウンティハンター、引っ張られるモギリ、そしてそれを追う女弁護士。
「サジータさん、お、落ち着いてください! ヘルプミー!」
「リカ、待たない! 返さない! ふがふが!」
 リカは走りながら、入れられるだけビスケットを口に中に突っ込んだ。
「リイイイイイカアアアアアア」
「リカ、ふぃらない! ノコ!」
「ノオオオオコオオオオオオオ」
「きゅきゅっ?!」
「しんじろおおおおおおおおお」
「ぼ、ぼく何も知りませんです! つ、つまめるっていったい何なんだー?!」

 恐怖の追跡を逃れ、リカと新次郎は野外サロンでぜいぜいと息をついていた。サジータはどうやら、怒りを鉄の釘で刺して過去の川に捨てて、クライアントとの待ち合わせに向かったらしい。
「どうなさったのですか?」
 二人が疲弊しきった顔をあげると、そこには可憐な研修医の姿があった。
「ダイアナさん」
 地獄に天使。はきだめに鶴。二人は安堵のあまり、へなへなと座り込んだ。
「まあ、どうなさったんです?!」
「ちょっと疲れて……」
「つかれたあ……」
「そうだ」
 と、ダイアナは、手にしたバスケットから、品の良い小花柄のナプキンでくるんだ、小さな包みを取りだした。 
「今日の朝、スコーンを焼いてきたんです。自家製のジャムも一緒に。もしよろしければ、どうぞ。甘いものを食べると、元気が出ますよ」
 二つの顔から笑みがこぼれる。
「すげー、うまそう!」
「ぼくたちがいただいちゃっていいんですか?」
「もちろん」
 新次郎の問いに、ダイアナは穏やかな笑みで答えた。
「家にまだありますし、お二人が召し上がってくださるのなら、このスコーンも幸せだと思いますよ。だって大河さんとリカを見ていると、つい……」
「つい?」
 きょとんとした二人を見て、ダイアナはそっと、自分の唇に人差し指を当てた。
「ふふ、ひみつです。では、わたしは用事がありますので、これで……」
 ダイアナが去ったあとも、次から次へと劇場の人々が二人の前に現れた。
 ジェミニ。
「昨日ね、ブラウニーを作ってみたんだ。はじめてだから、うまくできたか心配なんだけど……」
 ラチェット。
「さっき、お客様にゼリーをいただいたの。食べる?」
 サニーサイド。
「頑張っているきみたちにご褒美だ。チョコレートをあげよう。くじは全部ハズレなんだけどね」
 プラムと杏里。
「タイガー、リカ。ドリンクバーの新商品の試作にと思ってね、杏里とドーナツをたくさん揚げてみたの。あ・げ・る」
「リカちゃん、いっぱい食べてね。あ、大河さんもついでにどうぞ」
 最後に、昴までやってきた。
「飴をあげるよ」
「わー、なんだこれ! きれーだな」
「べっこう飴というんだ。日本のお菓子さ」
「うわあ、懐かしいですね!」
「日本から届いた荷物に入っていたんだ」
 言いながら、昴はきらきらと瞳をかがやかせる二人をじっくりと眺め回した。
「しかし、君たちを見ていると」
「どうしました?」
「……いや、なんでもない。今日はこれで失礼するよ。また明日」
「お疲れ様です、昴さん」
「おつかれー!」

 劇場を後にした二人と一匹は、手を繋いで、夕日に染まった紐育の街を、並んで歩いていた。
「しんじろー、お菓子いっぱいだな! みんなやさしいな! なっ、ノコ!」
 ノコは肩の上で、きゅ、と答えた。
「そうだね。明日、サジータさんにもちゃんとお礼を言おう」
「うんっ」
 新次郎が何気なく視線を下に移すと、上を見上げるリカのそれとぶつかった。
「ん、どーした?」
 リカの瞳はきらきらと輝いていて、そこから溢れた幸福が、直に心に伝わってくるようだった。新次郎の顔も、思わずほころんだ。
「リカ、よかったね」
「家に着いたら、たっくさんコーヒー作ってやるからな。いっぱい飲んで、いっぱい食べろ!」
「……コーヒーにミルク入れてもいい?」
「いしししっ、しんじろーは子どもだなー! サジータと昴は、黒くてにっがいの飲んでたぞ」
「エヘヘへ……」
 腕いっぱいにやさしいお菓子の甘いにおい、顔いっぱいにほくほくと満面の笑みを浮かべて、二人は仲良く帰途に着いた。

 次の日、劇場内にこんなポスターが貼られていた。
「ペットに餌付けをしないで下さい」




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