表紙



夢のあとさき





 どこまでも続く闇の海を、波に身を任せ、頼りなくゆらゆらと漂っている。全身を包みこむこの心地よさを、新次郎は確かに知っていた。士官学校時代に慣れ親しんだ、水の世界の記憶だ。それとも、もっと遠いむかし、近くにあったものかもしれない。
「……じろう」
 はるかに耳に聞こえるのは、母の声か。
「新次郎」
「……あれ?」
 かすみがかった視界の奥に、よく知った誰かの顔が見えたような気がしたが、すぐに否定した。夢でもなければありえないことだ。腰にあたる布団の感触、目に映る天井の染み。間違えようもない。ここは自分の部屋なのだ。そういえば、なぜ自分はベッドに横たわっているのか。熱をもった額が、ひどく痛む。
「起きたか、大河」
「昴さん?」
 起きぬけのかすれた声で、確かめるようにその名を呼んだ。上半身を起こそうとする新次郎を、昴の腕が押し留めた。
「まだ寝ていろ」
「ここ、ぼくの部屋ですよね? どうして昴さんが?」
 昴は小さくため息をついた。
「事の顛末はこうだ」
 静かな声音が、午後の日差しをたっぷりと浴びた、明るい部屋に響いた。
「僕が君の家を訪ねた」
 新次郎は目を細めた。外は快晴だ。小鳥がさえずりが、太陽の匂いを含んだ風が、人々の生活の音が、開け放された窓から飛び込んでくる。平生と変わりないアパートの日常だ。しかし、この風景に昴の姿があるのは、何だか、ふしぎなことのように思われた。
「そうしたら、君はお茶を淹れようとして」
 白く細い指が、新次郎の額に伸びた。そのまま濡れた手ぬぐいをつまみあげる。
「滑って転んで頭を打った」
 昴は優雅なしぐさで、手ぬぐいをたたみ直し、ふたたび額に戻した。冷えた水の感触が、火照った肌に心地よい。
「簡潔に言うと、そんなところだ。まだ痛むかい?」
 いまだ半ば夢心地の表情で、新次郎は考えた。そうだ、これは夢なのだ。そうでなければ、昴がこれほど新次郎の近くに、体温を感じられるほど近くにいるはずがない。ましてや膝枕など。
「いいえ、大丈夫です。心配をかけて、すみませんでした」
「こぶができただけだ。冷やしておけば、すぐ治るだろう」
 新次郎の表情がしおれた。
「何だか、ぼく、昴さんには格好悪いところばかり見られていますよね」
 それを聞く昴の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
「構わないよ。君を見ていると飽きないから」
「褒めてもらって嬉しいです」
「昴は言う。褒めてはいない。調子に乗るな」
「やっぱり、昴さんは夢の中でも手厳しいなあ」
「夢?」
「だって、昴さんが膝枕してくれてるんですよ。夢に決まってます」
「……ふふ、そうだね。夢かもしれない。こんな」
 最後の一言は、昴の唇を出ることなく、溶けて消えた。
「こんな、何ですか」
「秘密」
「昴さんは秘密ばっかりですね」
「ことばとて万能ではない。口にしないほうがいいことも、あるだろう?」
 昴はそう言いながら、新次郎の髪を指に絡ませた。その手つきがあまりにもやさしかったので、新次郎は顔を赤らめた。
「す、昴さん……」
「額以外に傷はないようだな」
「ぼくの頭、重くないですか? だいじょうぶですか?」
「平気だよ」
 昴の顔が、新次郎を覗き込んだ。逆光で、その面立ちには影が落ちていたが、まなざしはどこか明るく、嬉しそうに見える。癖のない細い黒髪が、白い頬を滑り落ちた。
「いつもは見上げるばかりだからね。たまにはこういうのも、悪くないさ」
 せっかくの夢だ。思い切り甘えてしまおう。新次郎はそう考えて、昴の細い指を握り、それから頬に寄せた。
「ん、どうしたんだい?」
「昴さんって、いいにおいがしますね」
 昴からは母親のにおいがすると言ったのは誰だったか。頭がぼんやりとして、うまく思い出せない。
「そうかな?」
「エヘヘ。そうだ、夢なら言っちゃおう」
「何を」
「好きです」
「……え?」
 そのとき、昴が息をのんだのがわかった。
「昴さんが、好きです」
「……うん」
 そのときの昴の表情を、新次郎が知ることはなかった。軽く白い手のひらが、目の上に覆い被さってきたのだ。
「好きです」
「うん、知ってるよ」
 新次郎の瞼に重ねられた指先が、かすかに震えた気がした。
「だから、もう少しおやすみ、大河」
「はい、昴さん、おやすみなさい」
 そうして、新次郎の意識は、ふたたび、深い眠りの闇へと帰っていった。

「よく寝たー!」
 次に新次郎が目をさましたとき、小さなアパートの一室には、彼のほか、誰の姿もなかった。すでに日は落ち、窓から見える空は、すみずみまで濃紺に染まっている。貴重な休日を、一日、寝て過ごしてしまったようだ。だが、こんな休みもたまには悪くない。
 新次郎はあくびをかみ殺しながら、思い切り伸びをした。
「いい夢見ちゃったなあ。……あれ」
 そのとき、甘い香りがふわりと鼻孔をかすめた。新次郎の頬が、赤く染まっていく。
「夢?」
 ただひとつ、夜風に漂う残り香だけが、住み慣れた部屋の中で、浮き上がるように、その美しい夢の真実を、物語っていた。




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